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  <title>格闘技王国</title>
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    <title>├─≠ョ─ヵラスとロビー・ローラー</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong><span style="font-size: x-large">├─≠ョ─ヵラス ラッシュ</span></strong><br /><span style="font-size: x-large"></span><a href="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/26.jpg"><img src="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/26.jpg" border="0" alt="├─≠ョ─ヵラス" width="500" height="500" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />├─≠ョ─ヵラス 素質を見出されプロ総合格闘技デビューを果たし、連勝を続け2002年にはUFCと契約を果たした。]]>
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    <pubDate>Wed, 12 Jan 2011 13:41:18 GMT</pubDate>
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    <title>├─≠ョ─ヵラスとユン・ドンシク</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong><span style="font-size: x-large">├─≠ョ─ヵラス 左足首</span></strong><br /><span style="font-size: x-large"></span><a href="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/25.jpg"><img src="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/25.jpg" border="0" alt="├─≠ョ─ヵラス" width="500" height="500" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />├─≠ョ─ヵラス 当初、古賀稔彦と瀧本誠に勝利したとの触れ込みで鳴り物入りでPRIDE参戦]]>
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    <pubDate>Wed, 12 Jan 2011 13:39:12 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>├─≠ョ─ヵラスと横路孝弘</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong><span style="font-size: x-large">├─≠ョ─ヵラス 北海道知事</span></strong><br /><span style="font-size: x-large"></span><a href="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/24.jpg"><img src="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/24.jpg" border="0" alt="├─≠ョ─ヵラス" width="500" height="500" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />├─≠ョ─ヵラス 「社会党のプリンス」とよばれた。]]>
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    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Tue, 11 Jan 2011 18:12:30 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>├─≠ョ─ヵラスと五百蔵洋一</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong><span style="font-size: x-large">├─≠ョ─ヵラス 法学部</span></strong><br /><span style="font-size: x-large"></span><a href="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/23.jpg"><img src="v" border="0" alt="├─≠ョ─ヵラス" width="500" height="500" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />├─≠ョ─ヵラス 民主党とは深いかかわりを持つ。]]>
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    <pubDate>Tue, 11 Jan 2011 18:09:52 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>├─≠ョ─ヵラスと藤原良信</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong><span style="font-size: x-large">├─≠ョ─ヵラス 陸仙会</span></strong><br /><span style="font-size: x-large"></span><a href="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/22.jpg"><img src="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/22.jpg" border="0" alt="├─≠ョ─ヵラス" width="500" height="500" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />├─≠ョ─ヵラス 小沢一郎衆議院議員（現：民主党幹事長）の秘書となる。]]>
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    <pubDate>Tue, 11 Jan 2011 18:08:12 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>├─≠ョ─ヵラスと谷岡郁子</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong><span style="font-size: x-large">├─≠ョ─ヵラス 物議</span></strong><br /><span style="font-size: x-large"></span><a href="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/21.jpg"><img src="//tokyokarasu2013.blog.shinobi.jp/File/21.jpg" border="0" alt="├─≠ョ─ヵラス" width="500" height="500" /></a><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />├─≠ョ─ヵラス 高等教育の無償化や少子化対策への予算の増額を主張している。]]>
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    <pubDate>Tue, 11 Jan 2011 18:01:30 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>ジミー・カーター</title>
    <description>
    <![CDATA[“ジミー”ジェームス・アール・カーター・ジュニア（James Earl "Jimmy" Carter, Jr., 1924年10月1日 - ）は、第39代アメリカ合衆国大統領。2002年 ノーベル平和賞受賞。身長175cm。バプテスト派キリスト者。<br />
牧師でもあり、長らく南部バプテスト連盟系列の教会の信徒だったが、南部バプテストが神学的・政治的に保守化を強めたことから脱退。現在は南部バプテスト系分派である“コーペラティブ・バプテスト・フェローシップ”（CBF）に籍を置く。<br />
目次 [非表示]<br />
1 経歴<br />
1.1 生い立ち<br />
1.2 軍歴<br />
2 政治経歴<br />
2.1 地方政治<br />
2.2 1976年の大統領選挙<br />
3 大統領職<br />
3.1 国内政策<br />
3.2 外交政策<br />
3.2.1 人権外交<br />
3.2.2 弱腰外交<br />
3.2.3 対中韓政策<br />
3.3 内閣<br />
4 大統領職後<br />
4.1 「史上最強の元大統領」<br />
4.2 外交への貢献<br />
4.3 慈善活動<br />
4.4 USSジミー・カーター<br />
5 トピック<br />
6 関連項目<br />
7 脚注<br />
8 外部リンク<br />
経歴 [編集]<br />
<br />
生い立ち [編集]<br />
カーターはジョージア州プレーンズの町で生まれた。なお、初の病院生まれの大統領である。アーチェリーの近くで成長した。ジョージアサウスウェスタン大学およびジョージア工科大学に入学した。<br />
軍歴 [編集]<br />
第二次世界大戦終結後の1946年に海軍兵学校から理学士。同年ロザリン・スミスと結婚。その後カーターは大西洋および太平洋の艦隊で潜水艦に勤務し、その後ハイマン・G・リッコーヴァー提督によってアメリカ海軍の原子力潜水艦の開発推進プログラムの担当者に選ばれた。1953年の父親の死に際し海軍大尉として海軍を退役し、ピーナッツ栽培農家になった。<br />
政治経歴 [編集]<br />
<br />
地方政治 [編集]<br />
<br />
<br />
フォード大統領と討論するカーター<br />
1960年代から生まれ故郷のジョージア州の州議会議員を2期務めた後、州知事に立候補し当選。1971年から1975年までジョージア州の知事を務めた。<br />
1976年の大統領選挙 [編集]<br />
1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬し、最初は「ジミーって誰のこと」と揶揄される程知名度が低かったが、ウォーターゲート事件により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民に対して、巧みにクリーンなイメージをアピールしたカーターは、現職のジェラルド・R・フォード大統領を破って一般投票の50.1%を獲得し勝利した。<br />
選挙戦で世論調査会社を本格的に活用し、各州それぞれが抱える問題の情報を収集、それに対応するメディア戦略をとった。<br />
大統領職 [編集]<br />
<br />
<br />
<br />
アンディ・ウォーホルとともに<br />
<br />
<br />
キャンプデービッドでメナヘム・ベギンとアンワル・アッ＝サーダートとともに<br />
<br />
<br />
SALTIIに調印するカーターとソ連のレオニード・ブレジネフ書記長<br />
<br />
<br />
ボンサミットでヘルムート・シュミット首相や福田赳夫首相、ヴァレリー・ジスカールデスタン大統領やジュリオ・アンドレオッティ大統領らと<br />
<br />
<br />
ヴァンス国務長官と、1977年<br />
就任式のあと、議事堂からホワイトハウスまで歩いて就任パレードを行った初の大統領である。このパレードは非常に好評を持って迎えられたために、その後多くの大統領がこれに倣っている。<br />
世論調査のデータを盲信する傾向があり、ホワイトハウスに専属の調査会社員を常駐させたが、あるときの世論調査が「国民はアメリカの将来を悲観視している」というまったくの集計ミスの結果であったにもかかわらず緊急テレビ会見を行い、支持率を急落させた。<br />
内外政策の度重なる失敗、特にイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さにより国民の支持を失ったことから、1980年の大統領選挙で共和党候補で元カリフォルニア州知事のロナルド・レーガンに選挙人投票で10倍近い差を、一般投票でも10パーセント近い差をつけられ敗北し、1期で政権の座を去ることとなった。<br />
なお、カーターがホワイトハウスを去ったその日に人質が解放されたことから、海外のマスコミは、「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだ」と非難した。<br />
国内政策 [編集]<br />
就任後に施行したいくつかの経済政策の失敗と、1979年のイラン革命に前後した石油危機などから、カーター政権中は高インフレと不況が国内を覆うことになった。任期中に外交において様々な問題が降りかかったこともあり、これらの国内問題を解決することはできなかった。<br />
なお、エネルギーの生産と調整に関与する内閣レベルの組織であるエネルギー省の設立（1977年）と、教育行政を管掌する教育省の設立（1979年）を行った。エネルギー省の設立は在任前後に起きたオイルショックを受けてのことである。なお、かつて教育行政は保健教育福祉省（現・保健福祉省）によって行われていた。<br />
外交政策 [編集]<br />
人権外交 [編集]<br />
冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトとイスラエルの間の和平協定「キャンプデービッド合意」を締結させたるなど、中東における平和外交を推進した。なお1977年3月16日にマサチューセッツ州クリントンで行われたタウンミーティングにおいて、アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした。<br />
他にも、ニクソン政権時代から推進されてきたデタント路線を、SALT IIの締結などでさらに推し進めた。またパナマ運河のパナマへの返還などを実現させた。<br />
弱腰外交 [編集]<br />
しかし、CIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけになり、イラン革命やその後のイランアメリカ大使館人質事件及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」の失敗、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)を許したことなどから、共和党などから、「弱腰外交の推進者」とたたかれることになった。<br />
イランにおけるアメリカ人の人質が解放されたのは、事件から実に444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日はカーターが後継のレーガンに政権を譲り、ホワイトハウスから去った日でもあった。<br />
対中韓政策 [編集]<br />
1979年には、前々任者のリチャード・ニクソン大統領による中華人民共和国との国交樹立政策を受け継ぎ、反対が強い中華民国と断交し、共産主義国家である中華人民共和国を訪問し国交樹立した。<br />
しかし、大韓民国に対しては、韓国政府が極秘裏に核兵器開発計画を進めていた事もあってかカーター政権の怒りを買っており、朴正煕率いる軍事政権との関係は険悪だったとされる[1]（このような背景から、朴正煕暗殺事件がアメリカ中央情報局（CIA）が関与したとの意見が存在するが、真相は不明である）。<br />
内閣 [編集]<br />
職名	氏名	任期<br />
大統領	ジミー・カーター	1977 - 1981<br />
副大統領	ウォルター・F・モンデール	1977 - 1981<br />
国務長官	サイラス・ヴァンス	1977 - 1980<br />
 	エドマンド・マスキー	1980 - 1981<br />
財務長官	マイケル・ブルーメンソール	1977 - 1979<br />
 	ウィリアム・ミラー	1979 - 1981<br />
国防長官	ハロルド・ブラウン	1977 - 1981<br />
司法長官	グリフィン・ベル	1977 - 1979<br />
 	ベンジャミン・R・シヴィレッティ	1979 - 1981<br />
内務長官	セシル・D・アンドルス	1977 - 1981<br />
商務長官	ジュアニータ・M・クレップス	1977 - 1979<br />
 	フィリップ・M・クルズニック	1979 - 1981<br />
労働長官	レイ・マーシャル	1977 - 1981<br />
農務長官	ロバート・セルマー・バーグランド	1977 - 1981<br />
保健教育福祉長官	ジョセフ・アンソニー・カリファノ	1977 - 1979<br />
保健福祉長官	パトリシア・ロバーツ・ハリス	1979 - 1981<br />
教育長官	シャーリー・マウント・ハフステッドラー	1979 - 1981<br />
住宅都市開発長官	パトリシア・ロバーツ・ハリス	1977 - 1979<br />
 	モーリス・エドウィン・ランドリュー	1979 - 1981<br />
運輸長官	ブロック・アダムズ	1977 - 1979<br />
 	ニール・E・ゴールドシュミット	1979 - 1981<br />
エネルギー長官	ジェームズ・R・シュレシンジャー	1977 - 1979<br />
 	チャールズ・W・ダンカン	1979 - 1981<br />
<br />
大統領職後 [編集]<br />
<br />
「史上最強の元大統領」 [編集]<br />
<br />
<br />
歴代大統領とともに（右端がカーター）<br />
大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した成果を上げられず、またイラン革命やソ連のアフガニスタン侵攻を許したが、大統領職を退いてから下記のような世界を驚かせる外交手腕を見せた事から「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」ことを評価され2002年にノーベル平和賞を受賞するなど、その手腕は国際的にも高く評価された。<br />
しかしその反面「史上最強の元大統領」、「最初から『元大統領』ならよかったのに」と、賞賛と半ば皮肉をこめて国内外のマスコミに呼ばれていた。<br />
外交への貢献 [編集]<br />
北朝鮮が核開発疑惑により国際社会から孤立し始めた1994年、カーターはアメリカ大統領経験者として初めて訪朝し、当時の金日成国家主席と会談した。この席でカーターは韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案をし、金日成の同意を得る。しかし、直後に金日成が急死し実現には至らなかった。このとき会談が実現していれば、朝鮮半島の南北関係、および北朝鮮と国際社会との関係は、今日のそれらとは異なるものになっていたかもしれないと言われている[誰?]。<br />
またカーターは、2002年5月にキューバを訪れ同国指導者のフィデル・カストロに会った。1959年の革命とその後の関係悪化以来初めてキューバを訪問したアメリカ大統領職経験者となった。<br />
2010年8月26日に再び朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、同国への不法入国罪で服役していたアメリカ人男性のアイジャロン・ゴメスを釈放するよう交渉を行い、特赦。ゴメスと共に出国した[2]。<br />
慈善活動 [編集]<br />
貧困層への住宅建設とコミュニティ設立を中心に活動しているNGOである「ハビタット・フォー・ヒューマニティ」の活動を支援しており、同NGOが行っているボランティア活動に同行したり、テレビCMに出演している[3]。<br />
USSジミー・カーター [編集]<br />
潜水艦の乗組員として勤務した経験のあるただ1人の大統領として、海軍は潜水艦にカーターの名を命名した。ジミー・カーター(USS Jimmy Carter, SSN-23)は、命名時にまだ生存している人名を付けられた少数のアメリカ海軍艦船のうちの一隻として、1998年4月27日に命名された。<br />
トピック [編集]<br />
<br />
1977年、大統領だったカーターはジョン・F・ケネディ暗殺事件の再調査を命じ、下院に「暗殺問題調査特別委員会（英語）」を設置した。しかし、疑義の多いウォーレン委員会の結論を覆せるだけの証拠を発見できず、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行説を否定する結論は出されたものの、何者かによる陰謀の存在を立証するには至らなかった。尚、暗殺問題調査特別委員会の調査資料の核心部分は2029年の公開まで封印される。<br />
1979年6月、来日時に夫人と共に六本木の焼き鳥店へ来店している。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れているように報道されたが、実際には大使館側の予約であること、その場に居た客も「仕込み」のサクラであることが判っている。同様の演出はその後の大統領来日の際にも行われている。<br />
カーターは1990年、梵鐘が縁で広島県甲奴郡甲奴町（現・三次市）に訪問。1994年には同町にジミー・カーター・シビックセンターが落成、カーターも再訪した[4]。また同町内の球場はカーター記念球場と命名されている。<br />
2007年2月11日に授賞式が行われた「第49回グラミー賞」で、オーディオブック「Our Endangered Values：America's Moral Crisis」が最優秀朗読アルバム賞を受賞した。<br />
自伝に“Why not the best?”『なぜベストをつくさないのか』がある。これは上記の海軍所属時において原子力潜水艦開発計画に従事していたとき、上司のハイマン・G・リッコーヴァー提督に突きつけられた言葉から来ている。<br />
関連項目 [編集]<br />
<br />
ズビグネフ・ブレジンスキー<br />
エドマンド・マスキー<br />
モハンマド・レザー・パフラヴィー<br />
ルーホッラー・ホメイニー（アヤトラ・ホメイニ）<br />
レオニード・ブレジネフ<br />
南部バプテスト連盟<br />
日本バプテスト連盟]]>
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    <pubDate>Mon, 10 Jan 2011 08:48:14 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>ジェラルド・R・フォード</title>
    <description>
    <![CDATA[ジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニア（Gerald Rudolph "Jerry" Ford, Jr., 1913年7月14日 - 2006年12月26日[1]、レズリー・リンチ・キング・ジュニア/Leslie Lynch King, Jr. から養子に出たことにより改名）は、アメリカ合衆国の第40代副大統領および第38代大統領（1974年 - 1977年）。共和党員。通称はジェリー。血液型はO型。<br />
1973年にスピロ・アグニューが副大統領を辞任した後、大統領指名と上下両院の承認を得て副大統領に就任（初のケース）した。また翌1974年にはリチャード・ニクソンの大統領の辞任をうけて大統領に昇格したため、大統領選挙を経ずに大統領になった。現職で戦った1976年の大統領選には敗れているので、今日までに大統領選に勝利し選出されたことのない、唯一のアメリカ合衆国大統領である。<br />
目次 [非表示]<br />
1 生い立ち<br />
2 第二次世界大戦<br />
3 下院院内総務<br />
4 副大統領職<br />
5 大統領職<br />
5.1 内閣<br />
5.2 評価<br />
6 1976年の大統領選<br />
7 1980年の大統領選<br />
8 栄誉<br />
9 エピソード<br />
10 註<br />
11 外部リンク<br />
生い立ち [編集]<br />
<br />
フォードは、レズリー・リンチ・キングとドロシー・エア・ガードナーの夫妻の子どもとしてネブラスカ州オマハで生まれた。フォードの当初の名前はレズリー・リンチ・キング・ジュニアであった。だが彼が生まれたころから父レズリー・キングは母ドロシーに暴力を振るうようになり、耐えられなくなった彼女は実家へ逃げるように去った。<br />
これだけでも当時の女性としては異例の行動であったが、彼女はさらに夫を訴えた。オマハの裁判所はキングに有罪判決を言い渡した。彼が生まれて2年後両親の離婚が成立し、その後母親はジェラルド・フォードと再婚した。<br />
フォードはその後にジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニアと改名された。フォードはミシガン州で成長し、ミシガン大学に入学した。大学ではフットボール部に所属し、全米代表に選出されるほどの名選手であった。一方で苦学生であった彼は、学費を稼ぐために複数のアルバイトをしていた。フォードは大学卒業後、NFLのグリーンベイ・パッカーズやデトロイト・ライオンズから誘いを受けたが、イェール大学のロー・スクールに入学し、弁護士資格を取得している。<br />
第二次世界大戦 [編集]<br />
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日本海軍による真珠湾攻撃によりアメリカが第二次世界大戦に参戦してから5ヵ月後の1942年4月に、フォードは予備役少尉として海軍に入隊した。アナポリス海軍兵学校でのオリエンテーション・プログラムの後に、彼はノースカロライナ州チャペル・ヒルの海軍飛行学校で運動教官になった。<br />
1943年春にフォードは軽空母モンテレー（USS Monterey, CV-26）に着任した。彼は最初に運動管理官および砲術士官として配属された。その後、補助ナビゲーターとして、トラック、サイパンおよびフィリピンを含む太平洋でほとんどの作戦に参加した。彼がその任務で最も死の危険に近づいたのは1944年12月のフィリピン海で、それは敵である日本海軍によるものではなく巨大な台風によるものだった。[2]モンテレーは嵐と火災による破損で任務を解かれ、フォードは戦争の残りを陸上任務で過ごし、戦争終結後の1946年2月に少佐として除隊された。<br />
下院院内総務 [編集]<br />
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フォードは1949年から1973年まで24年間下院議員で、1965年には下院の院内総務になった。前年の1964年の選挙で、共和党は下院での議席を減らした。当時の院内総務はインディアナ州選出の長老、チャールズ・ハレック下院議員であった。<br />
フォードは党の若返りを図ろうとするチャールズ・グッデル下院議員、ドナルド・ラムズフェルド下院議員ら若手のリーダー格であり、彼らに推され院内総務選挙に挑戦、勝利した。下院時代に、フォードはジョン・F・ケネディ大統領の暗殺原因を調査、また関する噂を押さえるために設立された特別対策本部、ウォーレン委員会のメンバーに選ばれた。委員会は、リー・ハーヴェイ・オズワルドが単独で暗殺を実行したと結論を下した。<br />
また、フォードは1964年のジョンソン政権下で成立した公民権法及び1965年の投票権法の成立に大きな役割を果たした。公民権問題に関してはジョンソン政権に協力する一方、大統領の「偉大な社会」計画の大半には下院共和党のリーダーとして反対の先頭に立った。フォードは共和党の上院院内総務であるエヴァレット・ダークセン上院議員と共にテレビに定期的に出演し、ジョンソン政権の政策に代わる共和党の政策をアピールした。この番組は大きな反響を呼んだ。<br />
副大統領職 [編集]<br />
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1973年、州知事時代の収賄罪が確定したことを受けてスピロ・アグニュー副大統領が辞職すると、同年10月10日にニクソン大統領はフォードを副大統領に指名した。その後上下両院の承認をうけて（上院は11月27日に賛成92対反対3で承認、下院は12月6日に賛成387対反対35で承認）、フォードは第40代副大統領に就任した。これはケネディ大統領暗殺を契機に1967年に制定された合衆国憲法修正第二十五条（大統領が欠けた時の副大統領の昇格、ならびに副大統領が欠けたときの新副大統領の任命に関する規定）が適用された初めてのケースとなった（大統領による任期半ばでの新副大統領指名はこのフォードと、後にフォード自身が指名することになるネルソン・ロックフェラーの二例があるのみ）。<br />
大統領職 [編集]<br />
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大統領としてのポートレート<br />
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ブレジネフ書記長と<br />
1974年フォードはソ連の最高指導者とウラジオストクで会談を行った<br />
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SALT I に調印するフォードとブレジネフ<br />
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初訪米した昭和天皇、香淳皇后夫妻をエスコートするフォード夫妻<br />
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ホワイトハウスのスタッフと<br />
左からディック・チェイニー大統領首席補佐官（元・副大統領）、ドナルド・ラムズフェルド国防長官（元・国防長官）<br />
ニクソンがウォーターゲート事件の結果辞職すると、フォードは大統領に昇格、「私たちの長い悪夢は終わった」という有名な一句を残した。しかしその一ヵ月後、フォードは、「ニクソンが犯した、または犯した可能性がある、すべての犯罪行為に対し、全面的な大統領特別恩赦を与える」と発表した。歴史家はこの恩赦が1976年の大統領選挙敗北につながったと見ている。政治評論家は1976年秋、10月6日の二回目のTV討論での失言が大統領選の敗北につながったと見ており、世論調査の「ジョージ・ギャラップ」は「選挙戦の決定的瞬間」と述べた。<br />
ウォーターゲート事件の影響で、1974年の中間選挙では民主党が上下両院で大幅に議席を増やし、立法府と行政府のねじれが生じた。フォードは民主党多数議会が可決した多くの法案に拒否権を行使して争った。<br />
フォードは、さらにマヤグエース号事件で外交危機に直面した。1975年5月に、クメール・ルージュがカンボジアで政権をとった直後、カンボジア領海でクメール・ルージュ軍が、アメリカ国商船マヤグエース号（SS Mayaguez　乗員37名）を拿捕した。フォードは、乗組員救出のために海兵隊を派遣した。しかしながら救助の海兵隊員は誤った島に上陸し抵抗を受け、18名の隊員の命が失われた。<br />
1975年9月5日カリフォルニア州サクラメントで、アナーキストチャールズ・マンソンの信奉者、リネット・“スキーキー” ・フロムがフォードに銃を向けたが、シークレット・サービスによって暗殺は防がれた。その17日後に、サラ・ジェーン・ムアがサンフランシスコでフォードに発砲したが、銃撃はオリヴァー・シップルによって妨がれた。<br />
なおフォードは、1974年11月18日に現職のアメリカ大統領として初めて日本を公式訪問し、昭和天皇と謁見した。この時の昭和天皇との初対面では足の震えが止まらなかったとするエピソードもある。また1975年には天皇として初訪米した昭和天皇を迎えている。<br />
内閣 [編集]<br />
職名	氏名	任期<br />
大統領	ジェラルド・フォード	1974 - 1977<br />
副大統領	ネルソン・ロックフェラー	1974 - 1977<br />
国務長官	ヘンリー・キッシンジャー	1974 - 1977<br />
財務長官	ウィリアム・E・サイモン	1974 - 1977<br />
国防長官	ジェームズ・R・シュレシンジャー	1974 - 1975<br />
 	ドナルド・ラムズフェルド	1975 - 1977<br />
司法長官	ウィリアム・サクスビー	1974 - 1975<br />
 	エドワード・レヴィ	1975 - 1977<br />
内務長官	ロジャーズ・モートン	1974 - 1975<br />
 	スタンリー・K・ハサウェイ	1975<br />
 	トーマス・サヴィグ・クレピー	1975 - 1977<br />
農務長官	アール・ラウアー・バッツ	1974 - 1976<br />
 	ジョン・アルバート・ネブル	1976 - 1977<br />
商務長官	フレデリック・B・デント	1974 - 1975<br />
 	ロジャーズ・モートン	1975<br />
 	エリオット・リチャードソン	1975 - 1977<br />
労働長官	ピーター・J・ブレナン	1974 - 1975<br />
 	ジョン・T・ダンロップ	1975 - 1976<br />
 	ウィリアム・アーゼリー・ジュニア	1976 - 1977<br />
保健教育福祉長官	キャスパー・ワインバーガー	1974 - 1975<br />
 	フォレスト・デイヴィッド・マシューズ	1975 - 1977<br />
住宅都市開発長官	ジェイムズ・トマス・リン	1974 - 1975<br />
 	カーラ・アンダーソン・ヒルズ	1975 - 1977<br />
運輸長官	クロード・ブリンガー	1974 - 1975<br />
 	ウィリアム・T・コールマン・ジュニア	1975 - 1977<br />
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評価 [編集]<br />
フォードは学生時代にフットボールに打ち込んだにもかかわらず、不器用な大統領として揶揄された。実際にフォードは、階段でつまずいたり、エアフォースワンの入り口で頭をぶつけたり、タラップを滑り落ちるなど、ちょっとしたアクシデントが不幸にもメディアに撮影されて話題となった。これをサタデー・ナイト・ライブのチェビー・チェイスが、「落ちたり何かを壊したりせずには一歩も進むことができない人」としてしきりとコントで取り上げたので、これがフォードのイメージとして定着してしまった。フォード個人を知る者たちは、彼がそれほど不器用な人間ではないとしてこうしたステレオタイプを非難した。<br />
その一方で、政治家としての彼は清廉潔白で、個人的にも素朴で誠実な人柄であった。自分を評して「私はフォード（フォード・モデルT）であって、リンカーン（フォード・モーターの高級車ブランド）ではない」とも語っている。そうした彼の姿は、大統領としての能力はともかく、ウォーターゲート事件で失墜したホワイトハウスへの信頼の回復には大きく役立った。<br />
ある意味戦時以上に難しい国家運営を求められた時期にあってフォード政権の支持率は決して高くなかったものの、フォードを下して1977年大統領に就任したジミー・カーター、また2006年フォードの訃報に接したジョージ・H・W・ブッシュはいずれも、失墜した大統領職の権威回復に尽力した彼の功績を賞賛している。<br />
フォードが大統領時代に補佐官として起用したラムズフェルドとチェイニーは少なからずフォード、キッシンジャーと対立したが、ブッシュ政権に於いて国防長官・副大統領という要職を占め、リベラル派の定義するところの「ネオコン派」となり、イラク戦争を主導した。しかしフォードは対イラク開戦直後、戦争の正当性を否定すると共に「大きな過ちを犯した」「すばらしい部下だったが好戦的になった」と両者を厳しく批判するコメントを発していたことが死後明らかにされた。<br />
1976年の大統領選 [編集]<br />
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歴代大統領とともに<br />
左から、フォード、リチャード・ニクソン、ジョージ・H・W・ブッシュ、ロナルド・レーガン、ジミー・カーター<br />
フォードのニクソンに対する恩赦と持続的な経済問題が、1976年の大統領選に於いて代償を支払う原因になったと考えられている。フォードの選挙戦活動はその年のロナルド・レーガンの指名に対する強い挑戦によって妨げられた。<br />
さらにフォードは選挙戦中に東ヨーロッパはソビエトの占領下にないという趣旨の発言をし、それが大きな失策となった。また、副大統領候補だったボブ・ドールが「今世紀に起こった戦争はすべて民主党が起こした」と発言したことも選挙でマイナスに作用した。<br />
1980年の大統領選 [編集]<br />
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1980年の大統領選では、共和党全国大会においてフォードは大統領候補のロナルド・レーガンの下の副大統領候補として指名されることになっていた。しかしながら、副大統領候補の指名決定日に、レーガンは考えを変更し、後に大統領となったジョージ・H・W・ブッシュを選んだ。<br />
栄誉 [編集]<br />
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ジェラルド・R・フォード (空母)<br />
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フォード大統領博物館にあるフォードの墓<br />
フォードはウォーターゲート事件後の国家再建努力で、1999年にビル・クリントン大統領によって自由勲章を与えられた。ミシガン州グランドラピッズのジェラルド・R・フォード国際空港は彼にちなんで命名された。また、合衆国海軍は、2015年頃に就役を予定している次世代型原子力空母ジェラルド・R・フォード級航空母艦の一番艦に、ジェラルド・R・フォードの名を冠することを決定した。彼の功績の記録や個人的資料を集めた大統領図書館がアナーバーに、大統領博物館がグランドラピッズにある。<br />
フォードは2006年11月12日にレーガンの93歳120日の記録を抜き、アメリカ合衆国大統領経験者としては歴代最長寿となった。2006年12月26日に死去したため、記録は93歳165日となった。<br />
2007年（平成19年）1月2日（現地時間）にワシントン大聖堂で国葬が行われた。ジョージ・W・ブッシュ大統領、ビル・クリントン前大統領、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領、ジミー・カーター元大統領などが参列した。日本からは政府特使として町村信孝外相が参列した。1月3日、故郷グランドラピッズのフォード大統領博物館に埋葬された。<br />
エピソード [編集]<br />
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息子のスティーブン・フォードは「スターシップトルーパーズ」や「ブラックホーク・ダウン」等で脇役俳優として活躍している。]]>
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    <pubDate>Mon, 10 Jan 2011 08:47:46 GMT</pubDate>
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    <title>シシー・スペイセク</title>
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    <![CDATA[シシー・スペイセク（Sissy Spacek, 本名Mary Elizabeth Spacek, 1949年12月25日 - ）はアメリカ合衆国テキサス州出身の女優である。<br />
来歴 [編集]<br />
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リー・ストラスバーグ・インスティテュートで演技を学んだ。<br />
『歌え!ロレッタ愛のために』でアカデミー主演女優賞を受賞。<br />
映画美術監督のジャック・フィクスと結婚し、娘が2人いる。]]>
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    <category>未選択</category>
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    <pubDate>Sat, 08 Jan 2011 09:29:15 GMT</pubDate>
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    <title>メリル・ストリープ</title>
    <description>
    <![CDATA[メリル・ストリープ（Meryl Streep, 本名: メアリー・ルイーズ・ストリープ、Mary Louise Streep, 1949年6月22日 - ）は、アメリカ合衆国の女優。<br />
目次 [非表示]<br />
1 来歴<br />
1.1 生い立ち<br />
1.2 キャリア<br />
1.3 私生活<br />
2 主な出演作品<br />
3 脚注<br />
4 外部リンク<br />
来歴 [編集]<br />
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生い立ち [編集]<br />
ニュージャージー州サミット出身。父親のハリー・ウィリアム・ストリープは製薬会社の役員、母親のメアリー・W・ストリープはコマーシャル・アーティスト。スイス、ドイツ、アイルランド、イングランドの血を引く[1][2]。 ヴァッサー大学在学中に奨学金を得て、イェール大学演劇大学院（クラスメイトにはシガニー・ウィーバーもいた）で学び、卒業時にはキャロル・ダイ演技賞を受賞した。<br />
キャリア [編集]<br />
舞台俳優としてキャリアをスタートさせ、ニューヨーク・シェイクスピア・フェスティバルでの舞台で注目を集める。1977年に『ジュリア』で映画デビューし、翌年公開の『ディア・ハンター』でアカデミー助演女優賞にノミネートされる。<br />
1979年公開の『クレイマー、クレイマー』でアカデミー助演女優賞を、1982年公開の『ソフィーの選択』でアカデミー主演女優賞を受賞。<br />
現在まで出演作は40本を越える、ハリウッドきっての演技派である。その演技に対する姿勢は、女版ロバート・デ・ニーロといってもいいほどで、デ・ニーロと同じく、役に成りきるために、事前には徹底したリサーチを行う。彼女がオスカーを獲得した『ソフィーの選択』では役作りのためにポーランド語訛りの英語を習得しているなど作品の背景に応じてアメリカ各地域のイントネーションを使い分けている。デ・ニーロはストリープのことを自分と最も息の合う女優といっている。<br />
ストリープはその演技力とともに、40歳を超えると女優には急に仕事がなくなるというハリウッド業界において、現在も第一線で、主役や準主役の役柄で活躍していることから多くの女優から尊敬と賞賛を受けている。なお、同じような例えとして挙げられるのが、『デッドマンウォーキング』で知られるスーザン・サランドンである。<br />
第82回アカデミー賞主演女優賞に『ジュリー&ジュリア』でノミネートされた。<br />
2010年現在、アカデミー賞に16回ノミネートされており、これは俳優としては最多である。また、ゴールデングローブ賞を6回受賞（26回ノミネート）しており、これはジャック・ニコルソンと並び最多である。<br />
私生活 [編集]<br />
俳優のジョン・カザールと婚約していたが、カザールが癌で死亡したために結婚にいたらなかった。その後1978年に彫刻家ドナルド・ガマーと結婚。ガマーとの間に4人の子供がいる。<br />
田舎の広大な敷地に引っ越した時に池に浮いている大きな亀を見て、スーツケースが浮かんでいると勘違いした（「クイズダービー」第632回(1988年3月19日放送分)の7問目より）]]>
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    <pubDate>Sat, 08 Jan 2011 09:28:52 GMT</pubDate>
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