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【2025/04/28 19:45 】 |
ジミー・カーター
“ジミー”ジェームス・アール・カーター・ジュニア(James Earl "Jimmy" Carter, Jr., 1924年10月1日 - )は、第39代アメリカ合衆国大統領。2002年 ノーベル平和賞受賞。身長175cm。バプテスト派キリスト者。
牧師でもあり、長らく南部バプテスト連盟系列の教会の信徒だったが、南部バプテストが神学的・政治的に保守化を強めたことから脱退。現在は南部バプテスト系分派である“コーペラティブ・バプテスト・フェローシップ”(CBF)に籍を置く。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 生い立ち
1.2 軍歴
2 政治経歴
2.1 地方政治
2.2 1976年の大統領選挙
3 大統領職
3.1 国内政策
3.2 外交政策
3.2.1 人権外交
3.2.2 弱腰外交
3.2.3 対中韓政策
3.3 内閣
4 大統領職後
4.1 「史上最強の元大統領」
4.2 外交への貢献
4.3 慈善活動
4.4 USSジミー・カーター
5 トピック
6 関連項目
7 脚注
8 外部リンク
経歴 [編集]

生い立ち [編集]
カーターはジョージア州プレーンズの町で生まれた。なお、初の病院生まれの大統領である。アーチェリーの近くで成長した。ジョージアサウスウェスタン大学およびジョージア工科大学に入学した。
軍歴 [編集]
第二次世界大戦終結後の1946年に海軍兵学校から理学士。同年ロザリン・スミスと結婚。その後カーターは大西洋および太平洋の艦隊で潜水艦に勤務し、その後ハイマン・G・リッコーヴァー提督によってアメリカ海軍の原子力潜水艦の開発推進プログラムの担当者に選ばれた。1953年の父親の死に際し海軍大尉として海軍を退役し、ピーナッツ栽培農家になった。
政治経歴 [編集]

地方政治 [編集]


フォード大統領と討論するカーター
1960年代から生まれ故郷のジョージア州の州議会議員を2期務めた後、州知事に立候補し当選。1971年から1975年までジョージア州の知事を務めた。
1976年の大統領選挙 [編集]
1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬し、最初は「ジミーって誰のこと」と揶揄される程知名度が低かったが、ウォーターゲート事件により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民に対して、巧みにクリーンなイメージをアピールしたカーターは、現職のジェラルド・R・フォード大統領を破って一般投票の50.1%を獲得し勝利した。
選挙戦で世論調査会社を本格的に活用し、各州それぞれが抱える問題の情報を収集、それに対応するメディア戦略をとった。
大統領職 [編集]



アンディ・ウォーホルとともに


キャンプデービッドでメナヘム・ベギンとアンワル・アッ=サーダートとともに


SALTIIに調印するカーターとソ連のレオニード・ブレジネフ書記長


ボンサミットでヘルムート・シュミット首相や福田赳夫首相、ヴァレリー・ジスカールデスタン大統領やジュリオ・アンドレオッティ大統領らと


ヴァンス国務長官と、1977年
就任式のあと、議事堂からホワイトハウスまで歩いて就任パレードを行った初の大統領である。このパレードは非常に好評を持って迎えられたために、その後多くの大統領がこれに倣っている。
世論調査のデータを盲信する傾向があり、ホワイトハウスに専属の調査会社員を常駐させたが、あるときの世論調査が「国民はアメリカの将来を悲観視している」というまったくの集計ミスの結果であったにもかかわらず緊急テレビ会見を行い、支持率を急落させた。
内外政策の度重なる失敗、特にイラン大使館人質事件解決に対する無力さと優柔不断さにより国民の支持を失ったことから、1980年の大統領選挙で共和党候補で元カリフォルニア州知事のロナルド・レーガンに選挙人投票で10倍近い差を、一般投票でも10パーセント近い差をつけられ敗北し、1期で政権の座を去ることとなった。
なお、カーターがホワイトハウスを去ったその日に人質が解放されたことから、海外のマスコミは、「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだ」と非難した。
国内政策 [編集]
就任後に施行したいくつかの経済政策の失敗と、1979年のイラン革命に前後した石油危機などから、カーター政権中は高インフレと不況が国内を覆うことになった。任期中に外交において様々な問題が降りかかったこともあり、これらの国内問題を解決することはできなかった。
なお、エネルギーの生産と調整に関与する内閣レベルの組織であるエネルギー省の設立(1977年)と、教育行政を管掌する教育省の設立(1979年)を行った。エネルギー省の設立は在任前後に起きたオイルショックを受けてのことである。なお、かつて教育行政は保健教育福祉省(現・保健福祉省)によって行われていた。
外交政策 [編集]
人権外交 [編集]
冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトとイスラエルの間の和平協定「キャンプデービッド合意」を締結させたるなど、中東における平和外交を推進した。なお1977年3月16日にマサチューセッツ州クリントンで行われたタウンミーティングにおいて、アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした。
他にも、ニクソン政権時代から推進されてきたデタント路線を、SALT IIの締結などでさらに推し進めた。またパナマ運河のパナマへの返還などを実現させた。
弱腰外交 [編集]
しかし、CIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけになり、イラン革命やその後のイランアメリカ大使館人質事件及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」の失敗、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)を許したことなどから、共和党などから、「弱腰外交の推進者」とたたかれることになった。
イランにおけるアメリカ人の人質が解放されたのは、事件から実に444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日はカーターが後継のレーガンに政権を譲り、ホワイトハウスから去った日でもあった。
対中韓政策 [編集]
1979年には、前々任者のリチャード・ニクソン大統領による中華人民共和国との国交樹立政策を受け継ぎ、反対が強い中華民国と断交し、共産主義国家である中華人民共和国を訪問し国交樹立した。
しかし、大韓民国に対しては、韓国政府が極秘裏に核兵器開発計画を進めていた事もあってかカーター政権の怒りを買っており、朴正煕率いる軍事政権との関係は険悪だったとされる[1](このような背景から、朴正煕暗殺事件がアメリカ中央情報局(CIA)が関与したとの意見が存在するが、真相は不明である)。
内閣 [編集]
職名 氏名 任期
大統領 ジミー・カーター 1977 - 1981
副大統領 ウォルター・F・モンデール 1977 - 1981
国務長官 サイラス・ヴァンス 1977 - 1980
エドマンド・マスキー 1980 - 1981
財務長官 マイケル・ブルーメンソール 1977 - 1979
ウィリアム・ミラー 1979 - 1981
国防長官 ハロルド・ブラウン 1977 - 1981
司法長官 グリフィン・ベル 1977 - 1979
ベンジャミン・R・シヴィレッティ 1979 - 1981
内務長官 セシル・D・アンドルス 1977 - 1981
商務長官 ジュアニータ・M・クレップス 1977 - 1979
フィリップ・M・クルズニック 1979 - 1981
労働長官 レイ・マーシャル 1977 - 1981
農務長官 ロバート・セルマー・バーグランド 1977 - 1981
保健教育福祉長官 ジョセフ・アンソニー・カリファノ 1977 - 1979
保健福祉長官 パトリシア・ロバーツ・ハリス 1979 - 1981
教育長官 シャーリー・マウント・ハフステッドラー 1979 - 1981
住宅都市開発長官 パトリシア・ロバーツ・ハリス 1977 - 1979
モーリス・エドウィン・ランドリュー 1979 - 1981
運輸長官 ブロック・アダムズ 1977 - 1979
ニール・E・ゴールドシュミット 1979 - 1981
エネルギー長官 ジェームズ・R・シュレシンジャー 1977 - 1979
チャールズ・W・ダンカン 1979 - 1981

大統領職後 [編集]

「史上最強の元大統領」 [編集]


歴代大統領とともに(右端がカーター)
大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した成果を上げられず、またイラン革命やソ連のアフガニスタン侵攻を許したが、大統領職を退いてから下記のような世界を驚かせる外交手腕を見せた事から「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」ことを評価され2002年にノーベル平和賞を受賞するなど、その手腕は国際的にも高く評価された。
しかしその反面「史上最強の元大統領」、「最初から『元大統領』ならよかったのに」と、賞賛と半ば皮肉をこめて国内外のマスコミに呼ばれていた。
外交への貢献 [編集]
北朝鮮が核開発疑惑により国際社会から孤立し始めた1994年、カーターはアメリカ大統領経験者として初めて訪朝し、当時の金日成国家主席と会談した。この席でカーターは韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案をし、金日成の同意を得る。しかし、直後に金日成が急死し実現には至らなかった。このとき会談が実現していれば、朝鮮半島の南北関係、および北朝鮮と国際社会との関係は、今日のそれらとは異なるものになっていたかもしれないと言われている[誰?]。
またカーターは、2002年5月にキューバを訪れ同国指導者のフィデル・カストロに会った。1959年の革命とその後の関係悪化以来初めてキューバを訪問したアメリカ大統領職経験者となった。
2010年8月26日に再び朝鮮民主主義人民共和国を訪問し、同国への不法入国罪で服役していたアメリカ人男性のアイジャロン・ゴメスを釈放するよう交渉を行い、特赦。ゴメスと共に出国した[2]。
慈善活動 [編集]
貧困層への住宅建設とコミュニティ設立を中心に活動しているNGOである「ハビタット・フォー・ヒューマニティ」の活動を支援しており、同NGOが行っているボランティア活動に同行したり、テレビCMに出演している[3]。
USSジミー・カーター [編集]
潜水艦の乗組員として勤務した経験のあるただ1人の大統領として、海軍は潜水艦にカーターの名を命名した。ジミー・カーター(USS Jimmy Carter, SSN-23)は、命名時にまだ生存している人名を付けられた少数のアメリカ海軍艦船のうちの一隻として、1998年4月27日に命名された。
トピック [編集]

1977年、大統領だったカーターはジョン・F・ケネディ暗殺事件の再調査を命じ、下院に「暗殺問題調査特別委員会(英語)」を設置した。しかし、疑義の多いウォーレン委員会の結論を覆せるだけの証拠を発見できず、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行説を否定する結論は出されたものの、何者かによる陰謀の存在を立証するには至らなかった。尚、暗殺問題調査特別委員会の調査資料の核心部分は2029年の公開まで封印される。
1979年6月、来日時に夫人と共に六本木の焼き鳥店へ来店している。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れているように報道されたが、実際には大使館側の予約であること、その場に居た客も「仕込み」のサクラであることが判っている。同様の演出はその後の大統領来日の際にも行われている。
カーターは1990年、梵鐘が縁で広島県甲奴郡甲奴町(現・三次市)に訪問。1994年には同町にジミー・カーター・シビックセンターが落成、カーターも再訪した[4]。また同町内の球場はカーター記念球場と命名されている。
2007年2月11日に授賞式が行われた「第49回グラミー賞」で、オーディオブック「Our Endangered Values:America's Moral Crisis」が最優秀朗読アルバム賞を受賞した。
自伝に“Why not the best?”『なぜベストをつくさないのか』がある。これは上記の海軍所属時において原子力潜水艦開発計画に従事していたとき、上司のハイマン・G・リッコーヴァー提督に突きつけられた言葉から来ている。
関連項目 [編集]

ズビグネフ・ブレジンスキー
エドマンド・マスキー
モハンマド・レザー・パフラヴィー
ルーホッラー・ホメイニー(アヤトラ・ホメイニ)
レオニード・ブレジネフ
南部バプテスト連盟
日本バプテスト連盟
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【2011/01/10 17:48 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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