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【2025/05/01 04:53 】 |
愛川ゆず季
愛川 ゆず季(あいかわ ゆずき、1983年5月16日 - )は日本のプロレスラー、グラビアアイドル、女性タレントである。スターダム[3]・プラチナムプロダクション[4]所属。
2003年、大きくパッチリとした瞳、バスト100cm[5]の爆乳とクラシックバレエで鍛えたしなやかで柔軟な肉体を引っさげて水着グラビアデビューすると途端に複数の男性誌で表紙や巻頭グラビアを飾る人気グラビアアイドルの1人となる。現在はグラビアと並行し、テレビのバラエティ番組やWeb生放送のレギュラー番組で活躍中。
目次 [非表示]
1 略歴
2 人物
3 エピソード
4 出演
4.1 テレビ
4.2 映画
4.3 ラジオ
4.4 インターネット
4.5 舞台
4.6 CM キャンペーン
4.7 ゲーム
4.8 携帯サイト
5 アイテム
5.1 出版作品
5.1.1 写真集 / ムック本
5.1.2 トレーディングカード
5.1.3 カレンダー
5.2 映像作品
5.3 CD
5.4 その他のアイテム
6 脚注
7 外部リンク
略歴 [編集]

1983年、愛媛県新居浜市に生まれる。父親はゆず製品製造会社の社長である[6]。
2002年、海外留学を目標として東京の外国語学校に進学するために上京。その卒業間際に渋谷109でスカウトされ芸能界入り。スカウトされた時に出された名刺の所属タレント名に若槻千夏の名前を見たことが、芸能界入りを決心させた。翌年男性雑誌の水着グラビアでデビュー。
2004年4月20日号『FLASH EX』に“彩川ゆずき”の名前でグラビアに掲載。生年月日は、1984年5月16日となっている。
2005年、同じ事務所の相澤仁美、渋谷真由、清原みゆきと共にSUPER GTイメージガール「P-ch!(ピーチ)」に選出。浜田翔子、西田奈津美、吉田智美と共に日テレジェニック2005に選出。
2006年、P-ch!のメンバーで同じ事務所の相澤仁美と「オーパーツ」というユニットを組みCDデビュー。
2007年、YOU THE ROCK★と共にサイバーエージェントのアメーバブログWeb生放送『Ameba番長』のレギュラーアシスタントMCを務める。
2009年10月6日から放送が開始されたTBS系「崖っぷち」内で、新規で始めたブログを3カ月で2000万アクセスに到達させないと芸能界を強制引退するという企画に挑戦した。企画発表からわずか8日で1000万アクセスを超え、2009年10月17日に2000万アクセスを突破したため、引退は回避できた。
2010年8月23日に記者会見でプロレスデビューを発表した。[7]
人物 [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2009年11月に貼り付けられました。
1度やると決めたことは意地でもやり遂げる根性の持ち主の反面、コレと決めたらテコでも動かない頑固なところがある。その一方で涙脆く、感動することがあるとすぐに泣く。
ナルシストで「自分大好き人間」ある事を公言しておりメイド、猫、ナースなどコスプレ衣装を自前で何着も持っている。また自身の全体写真がプリントされた等身大抱き枕で寝ている。男性の好きなタイプは「ゆず季だけを見てくれる人。浮気は絶対に許さない」「ごはんをモリモリ食べる人」とのこと。『Ameba番長』の占いコーナーでは必ずと言ってよいほど「自己顕示欲の強さ」を指摘され、当人もそれを否定しない。普段のファッションも華やかで柔らかい感じのファッションを好み、ボトムもパンツスタイルではなくスカートである事が多い。
将来の目標は女優。柴咲コウや奥菜恵が好き。
趣味はショッピング、ゲーム。特にゲーム好きで、過去には桃太郎電鉄シリーズのやり込みプレイやどうぶつの森にはまっていた。また恋愛映画が好きで、純愛ものをよく見る。番組での自宅公開によると漫画もよく読んでいる。
特技はクラシック・バレエ、バレーボール、水泳。特にクラシック・バレエは海外公演に参加したことがあるほどの腕前。また体の柔らかさを生かすためにテコンドーを習う。流派はJTA(日本テコンドー協会)。級は3級(青帯)。
『キンコンヒルズ』にて、かなりの運動音痴ぶりを発揮して笑いを取る。特に跳び箱系は苦手の様。
自らキャッチコピーを「夜のおともに愛川ゆず季」と付けた。
好きな食べ物はチーズ。嫌いな食べ物は辛いもの全般。独特の苦味があるコーヒーが飲めなかったが、2006年頃から克服し飲める様になった。 
ワンデーのコンタクトレンズを愛用しており、パリパリに乾いたレンズを集めるのが趣味だったが、レーシック手術を受けてコンタクトレンズは必要なくなってしまった。
妹と弟がいる。
エピソード [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2009年11月に貼り付けられました。
ファンにつけてもらった愛称「ゆずぽん」を気に入り、これを自らも愛称として公表している。これに起因してミツカン酢「ゆずぽん」のCMに出るのが夢。所属事務所の先輩である若槻千夏には「ゆずきんぐ」と呼ばれている。また自らのチャームポイントをファンから指摘され、自分でも気に入っていた「顎のライン」としている。
クラシック・バレエを続けていたときには現在のような豊満なバストではなく、どちらかというと貧乳だった。しかし高校に入学しバレエを止めたことで一気に20キロ近く太ってしまい、「さすがにこれはマズイ」とダイエットを決意。再びバレエとテコンドー等を始めてダイエットには成功したが胸だけが痩せず、現在の豊満なバストを手に入れた。しかし、芸能界で仕事をするまで胸の大きさがコンプレックスになっていたと後に告白している。クラシック・バレエの時は「テーピングで下までグルグル巻いて押さえつけてたのがつらかった」という。
週刊ヤングジャンプにおいてグラビア共演した石井めぐるとともに「ゆずめぐ」という誌面限定ユニットを結成後、仕事で一緒になるグラビアアイドルと私的にユニットを組むことがある。BS-i『アイドル芸能社』で一緒だった佐野夏芽とは「なつゆず」、浜田翔子とは「ゆずこしょう」を名乗る。皆、プライベートでも仲がよい友人である。また事務所の半年後輩(しかし1つ年上)にあたる相澤仁美とは「P-ch!」や「オーパーツ」に限らず一緒に活動する事が多く、共演の様子がよくブログに出てくる。
自称”晴れ女”であり普段から折り畳み傘など雨具を持ち歩く習慣が無いため、雨に降られるたびにビニール傘を買ってしまい自宅にはフトンたたきの代わりにしているほどたくさんのビニール傘がある。
『Qさま』の潜水企画において日本代表入りをかけてトライし、潜水距離68mという日本女子トップレベルのパフォーマンスを見せるも酸欠により失格となる。後に自身のブログで「一瞬意識がとんだ」と語っている。また、同番組の別企画芸能界シンクロ選手権SPで相澤と共に見事な演技を見せている。
TV番組の中で霊能を持つ人に嫌なのに断れないという意思の弱さを指摘され、それを聞いた本人も納得していた。この霊能者いわく、優柔不断が災いし生きている男からも好かれやすいが死んでしまって霊になった男からも好かれてしまうとのこと。霊感自体も強く、2006年7月15日放送の『芸能界霊能力検定』では準3級を取得している。
出演 [編集]

テレビ [編集]
アイドル芸能社(BS-i、2005年4月~2006年1月)- アイドル芸能社社長
日テレジェニックの宝箱(SKY PerfecTV!110、Ch143→291パンチクラブ、2005年3月~)
ポイチョ!(瀬戸内海放送、2006年1月~2007年12月)
最強メダル伝説・第3章(サンテレビ、2006年7月~)
パオパオ アソビ★クリエイターズ(BS日テレ、2006年10月~2007年3月)
WakiWaki体操(GyaO、2006年11月~)
グラビアの美少女(MONDO21、2006年)
ドラマ「占い師 天尽」(CBC/goo配信、2006年1月)第1話ゲスト
朝までたけし的ショー(2007年1月2日、テレビ朝日)
ドラマ「山おんな壁おんな」(フジテレビ、2007年7月12日)第2話ゲスト
ご当地グルメバトル!桃鉄の旅(旅チャンネル)
ゴッドタン~The God Tongue 神の舌~(テレビ東京系、2008年3月5日、12日)ゲスト
TVチャンピオン2・無人島王選手権SP(テレビ東京系、2008年9月4日)佐野夏芽と共にグラビアアイドルとしてのゲスト。
スペシャルドラマ夢をかなえるゾウ(男の成功篇)(2008年10月2日 日本テレビ/読売テレビ) - 美女役
ガレッジ×ビレッジ(テレビ東京、2008年10月20日)相澤仁美と共にゲスト。
キンコンヒルズ(テレビ東京、2008年12月4日・11日、2009年3月12日・19日)
今夜もドル箱(テレビ東京、2009年7月7日)木口亜矢と共にゲスト。
崖っぷち〜アラビアンサイトFEVER〜(TBS、2009年10月6日)
南極料理人と行く極寒北海道おいしいツアー~食材は自ら確保せよ!~(北海道放送製作TBS系ネット、2010年2月21日)さかなクンとともに出演。
小島×狩野×エスパー3P(TOKYO MX、2010年4月24日、5月1日)
映画 [編集]
幽霊より怖い話「女優ストーカー篇」(2005年5月、DVDレンタル作品、監督:坂牧良太、配給:PAL企画)
スクールデイズ(2005年、劇場公開作品、監督:守屋健太郎、配給:ファントムフィルム)- 元アイドルの女優・緑川優役。
日掛け金融地獄伝 こまねずみ常次朗、日掛け金融地獄伝 こまねずみ常次郎 悪徳金融死すべし(2006年、劇場公開作品、監督:鈴木浩介、配給:アートポート) - ヒロイン・浅野捺子(なつこ)役
キャバギョ!(2007年、DVD公開作品、監督・脚本:村上大樹、配給:avex) - 美優役。
バブルへGO!! タイムマシンはドラム式(2007年、劇場公開作品、監督:馬場康夫、配給:東宝) - レミ役。
しあわせになれない悲しい花(2010年、劇場公開作品、監督:山本淳一、配給:ミュージックシネマズジャパン)
ラジオ [編集]
Ameba番長(Webラジオ、2007年2月~)- レギュラーアシスタントMC
はるな愛のよろしく!グラビアンナイト(準レギュラー)(ニッポン放送)
DJ Tomoaki’s Radio Show!(下北FM、2010年10月14日※20時台アシスタントMCとして出演)
インターネット [編集]
ヨーロピアンポーカーツアー 2007(GyaO)
She 愛川ゆず季(ドーガ堂)
She 愛川ゆず季 Vol.2(ドーガ堂)
溜池Now(GyaO)溜池会会員No.011
舞台 [編集]
ロリータ男爵×愛川ゆず季「なんてったってアニマル」(作・演出:田辺茂範、2006年12月16日~12月21日、全7公演) - ヒロイン・ゆずポン役、劇中の映像イラストも担当
ケンコー全裸系水泳部 ウミショー - 静岡みれい役
CM キャンペーン [編集]
結婚情報サービス「メグリアイ」イメージガール
「P-ch!(ピーチ)」2005年SUPER GTイメージガール(他メンバーは、相澤仁美、渋谷真由、清原みゆき)
日テレジェニック2005(他メンバーは、浜田翔子、西田奈津美、吉田智美)
ダリヤ「メンズパルティ」パッケージモデル(他メンバーは、木口亜矢、星野香織)
スパワールド(2006年)
ゲーム [編集]
龍が如く(声:ゆず、2005年12月8日、セガ)
携帯サイト [編集]
アイドルがイッパイ(アイパイ)
アイテム [編集]

出版作品 [編集]
写真集 / ムック本 [編集]
CITRON(2004年、加納典譲:撮影、竹書房) ISBN 978-4-8124-1751-5
Miss.Girl(2004年、河野英喜:撮影、ワニマガジン社) ISBN 978-4-89829-784-1
ゆず季のカ彼レ視シ。(2005年、松田忠雄:撮影、アスコム) ISBN 978-4-7762-0234-9
花ゆず季(2005年、西条彰仁:撮影、学研) ISBN 978-4-05-402776-3 - 地元の愛媛県がロケ地。
ゆずcm ~ 恋が始まる至近距離(2006年、矢西誠二:撮影、彩文館出版) ISBN 978-4-7756-0126-6
トレーディングカード [編集]
LOVE LOVE Citrus(2005年、さくら堂)
BOMB CARD LIMITED 4000 愛川ゆず季(2005年、ムービック)
BOMB CARD LIMITED 3000 愛川ゆず季2(2006年、ムービック)
プラチナム オフィシャル カードコレクション (2007年、さくら堂)
カレンダー [編集]
2005年度版カレンダー(2004年、TRY-X)
2006年度版カレンダー(2005年、TRY-X)
2007年度版カレンダー(2006年、TRY-X)
映像作品 [編集]
CITRON(2004年、竹書房)
山岸伸デジタル写真集(5)愛川ゆず季(2004年、ソフトバンクパブリッシング)
微熱(2004年、リバプール)
微笑(2005年、リバプール)
HANAYUZUKI(2005年、ムービック) - 地元の愛媛県がロケ地。
日テレジェニック2005 愛川ゆず季(2005年、バップ)
日テレジェニックの宝箱 愛川ゆず季(2005年、バップ)
ゆずポン☆LOVE RIVER(2006年、ラインコミュニケーションズ)
ゆず・にゃん?!(2006年、ラインコミュニケーションズ)
ゆず恋(2006年、学研)
YUZU DIARY(2006年、フォーサイド・ドット・コム)
太陽がイッパイ!(2007年、イーネットフロンティア)
Double Bomb(2008年、フォーサイド・ドットコム) 相澤仁美との共演作
爆乳戦隊パイレンジャー(2008年12月19日、エースデュース)
CD [編集]
秘密のボンバー(ユニット・オーパーツとして 2006年7月26日、Girl's Record)
カップリング:「海へ行こう!」
PV、メイキングDVD付き。
Very Merry X'mas 2006(ユニット・4YOUとして 2006年12月6日、Girl's Record)
カップリング:「kiss and hug」
PV、メイキングDVD付き。
ゆずポン☆れぼりゅーしょん(2007年10月24日、Girl's Party) PV、メイキングDVD付き。
う・ふ・ふ・ふ
message
その他のアイテム [編集]
愛川ゆず季ネックストラップ(2005年、通販商品)
愛川ゆず季等身大ハグクッション(2005年、TRY-X)
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【2011/01/03 00:43 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
高田延彦
髙田 延彦(たかだ のぶひこ、男性、1962年4月12日 - )は、日本のプロレスラー、元総合格闘家。現在はタレント、俳優、実業家として活躍をしている。本名は高田 伸彦。神奈川県横浜市泉区出身。血液型はA型。
格闘技ジム高田道場主宰者であり、格闘技イベントPRIDE統括本部長を務めていた。芸能マネジメントはレプロエンタテインメントが受け持っている。妻はタレントの向井亜紀。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 新日本プロレス
1.2 旧UWF〜新日本プロレス〜新UWF
1.3 UWFインターナショナル
1.4 キングダムのサポート
1.5 総合格闘家時代
1.6 総合格闘技引退後
2 得意技
3 入場テーマ曲
4 経歴
5 戦績
6 人物
7 出演
7.1 映画
7.2 ドラマ
7.3 その他
8 関連書籍
9 出典
10 関連項目
11 外部リンク
来歴 [編集]

新日本プロレス [編集]
少年時代は長嶋茂雄に憧れる野球少年で、少年野球ではオール橫浜に選出されるが、長嶋の引退と共に野球熱が冷める[1]。アントニオ猪木に憧れて、中学生になった頃にはプロレス入りを決意[2]。中学校卒業後、アルバイトをしながら独自の方法で体を鍛え[3]、1980年に新日本プロレスへ入団して[4]。道場では藤原喜明と前田日明が兄貴分的な存在となり、スパーリングで鍛えてもらう[5]。太りにくい体質で、新弟子時代は毎月のように体重のノルマを課せられて、それをクリアできなければ解雇される状態だった[6]。
1981年5月9日に保永昇男戦でデビュー[7]。この頃の得意技は跳躍力を活かしたミサイルキック(トップロープからのドロップキック)。
1982年からはアントニオ猪木の付き人を務める[8]。1983年に猪木がカナダ遠征をした際に付き人として同行しており、欠場した初代タイガーマスクの代わりにたまたま試合に出場したところ、ジャーマン・スープレックスで勝ちを収め、高田のテレビ中継デビュー試合でもあり、ポスト・タイガーマスクとして一躍注目を集める存在となった[9]。それまでは前座で勝てなかった先輩達(新倉史祐、小杉俊二)から勝利を収め、代打の形でTVマッチにも抜擢されるようになり、「青春のエスペランサ」の異名がつけられた。当時の入場テーマ曲は「疾風のライダー」という曲でUWF移籍前の新日時代にかかっていた。また、ジュニア戦線での闘いを意識してローリングソバットを多用していた。
旧UWF〜新日本プロレス〜新UWF [編集]
1984年に師匠藤原喜明の誘いで[10]、新日本プロレスを離脱し、オープニングシリーズでは選手貸出しの形で参戦していたUWF(旧UWF、第1次UWF、ユニバーサル)に移籍して前田日明と合流。後楽園ホールで、同時期にUWFに移籍した山崎一夫らと名勝負を繰り広げたものの、予定されていたアントニオ猪木の不参加などの要因で地方では不入りだったこと等から同団体は崩壊、その後UWF所属レスラーは新日へ合流した。新日に参戦した期間には、越中詩郎を好敵手として「新・名勝負数え唄」と呼ばれる好試合を繰り広げ、IWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争った[11]。また、当時『ワールドプロレスリング』の実況を担当していた古舘伊知郎から「わがままな膝小僧」の異名を付けられた(キックを多用するファイトスタイルから。「戦うジェームス・ディーン」とも)。女性ファンからの人気も高くバレンタインデーにはチョコレートが段ボール箱が2、3箱届いていた[12]。
1988年、前田日明、山崎一夫らとともに第2次UWFを立ち上げる。第2次UWFでは前田に次ぐナンバー2の序列で[13]、前田、山崎とともに「前高山」と言われた[14]。第2次UWFは一世を風靡したものの、人間関係の不和から、1991年に前田のリングス、藤原喜明の藤原組、高田のUWFインターナショナルの三団体に分裂した。
UWFインターナショナル [編集]
UWFインターナショナルで社長に就任[15]。「最強」を肩書きにした高田[16]は団体の絶対的エースとして[17]、ゲーリー・オブライト、北尾光司、スーパー・ベイダー、サルマン・ハシミコフら強豪選手との対戦などで人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選ばれる。1994年4月からはフジテレビのスポーツニュース番組「スポーツWAVE」のキャスターを務めるまでになる[18][19](試合があった日も生放送に出演していた)。1994年1月にタレントの向井亜紀と挙式した[20]。
高田以外に知名度のある選手がおらず、スポンサーやテレビもついていないUWFインターの経営は1994年頃よりいよいよ苦しくなり、社長業が高田を精神的に苦しめるようになる[21]。1995年6月に「近い将来、引退します」とマイクで宣言し[22]、さらに同年7月の参議院選挙にはさわやか新党から比例名簿順位2位で出馬するも落選[23]。8月には田村潔司から「僕と真剣勝負してください」と挑戦を受けるが拒否した[24]。数々のトラブルと選手離脱により倒産が現実味を帯びたUWFインターは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切り、1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司(IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウンを受ける[25]。1996年1月4日、東京ドームで武藤を破ってリベンジに成功。第18代IWGPヘビー級王者となり、IWGPすべての王座を獲得した。3月1日には、UWFインターナショナルのリングで防衛戦が行われ、越中詩郎を破って初防衛に成功したが、4月29日、橋本真也に敗れ王座陥落となった。その後、WARに参戦して交流試合を行い、天龍源一郎と2度のシングルマッチを行い天龍との試合はプロレス大賞の年間最高試合に選ばれる。しかし、UWFインターの運営は混迷し、山崎に続いて、6月には田村潔司や中野龍雄が退団[26]。10月にはインディー団体「東京プロレス」に参戦し、従来の路線からすればありえないマッチメイクであったブッチャーとのシングルマッチを行ってまでなんとか団体の存続を図ったが[27][28]、1996年12月にUWFインターナショナルは解散した。
キングダムのサポート [編集]
多くの選手は新たに設立された団体「キングダム」に引き継がれたが、既にヒクソン・グレイシー戦を見据えていた高田は意見の相違のため所属はせず、公開スパーリングと解説者としてかつての仲間をサポートするにとどまった。UWFインターナショナルで興行に経営者として携わることに懲りており[29]、自らは興行会社としてのプロレス団体ではなく所属選手を持つ格闘技の道場として「高田道場」を設立した。
総合格闘家時代 [編集]
キングダムの初期、高田道場の選手や海外のバーリ・トゥード系選手を招聘しての総合格闘技興行「PRIDE」の開始に深く関わる。
PRIDE創生期に選手として活動、ヒクソン・グレイシーと2度対戦(PRIDE.1、PRIDE.4)するが敗退。特に初戦において、エースクラスの日本人レスラーの総合格闘技での敗北はこれが最初でありプロレスファンの深い失望を招くとともに、A級戦犯としてプロレスマスコミからバッシングを受け、さらにアントニオ猪木からは「よりによって一番弱い奴が出て行った」と酷評される[30]。
2度目のヒクソン敗北直後に「もういっちょ!」とヒクソンとの3度目の対戦を望んだ。その後もマーク・ケアー(PRIDE.6)、ホイス・グレイシー(PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦)、イゴール・ボブチャンチン(PRIDE.11)、ミルコ・クロコップ(PRIDE.17)、マイク・ベルナルド(INOKI BOM-BA-YE 2001)などと次々と戦うが、消極的な戦い方で敗退した。イゴール・ボブチャンチン戦からはメインイベンターの座からも降りた。一方、マーク・コールマン(PRIDE.5)には勝利したが、コールマンは「この試合はブックだった」と告白している[要出典]。
2002年11月24日、PRIDE.23の田村潔司相手に引退試合を行い、2Rに右フックで失神KO負け。試合後のマイクで田村に「お前、男だ!」と発言、このフレーズが後の大会で頻繁に使用されることになる[31]。
総合格闘技引退後 [編集]
PRIDE統括本部長に就任し、同時にPRIDE中継の解説も行っていた。大晦日の特別興行「PRIDE男祭り」のオープニングでは、開会宣言で「おまえら男だ!」と叫ぶ選手呼び込みで話題となった。2003年開催時にはさいたまスーパーアリーナの地上60メートルの屋上に立ち、2004年開催時にはふんどし一丁で暴れ大太鼓を叩いて、「 男の中の男たち、出てこいやーっ !」と選手を呼び込んだ。(後にこのフレーズは高田を形容するキャッチフレーズとなる。単に「出てこいやー」とも。)そして、2005年開催時にはタップダンスを披露した後、2006年開催時にはピアノ独奏を披露した後に、ふんどし一丁で暴れ大太鼓を叩いた。
一方で、DSE(後にハッスル・エンターテイメント)が主催するプロレスイベント「ハッスル」においては、ハッスル1と『ハッスルGP2008』に電撃参戦する小路晃の記者会見に登場した。なお、悪役レスラー軍団「高田モンスター軍」の「高田総統」とは、高田の古くからの友人という設定になっている。PRIDEに関わっていない現在においても、高田道場が主催する「ダイヤモンドキッス・カレッジ」に小路晃や\(^o^)/チエ、野口大輔レフェリーらが参加するなど、ハッスルとは良好な関係にある。
ディズニーのアニメーション映画「Mr.インクレディブル」で声優に挑戦。日本テレビのテレビドラマ「戦国自衛隊 関ヶ原の戦い・第二部 愛する者のために」や、ドリームステージピクチャーズ製作の映画「シムソンズ」、NHK大河ドラマ「功名が辻」「風林火山」、連続テレビ小説・「瞳」に出演した。
得意技 [編集]

腕ひしぎ十字固め
高田の代表的なフィニッシュ・ホールド。
ハイキック
水車落とし
バックドロップ
ミサイルキック 
若手時代及び新日本プロレスとの対抗戦時代に使用していた。形としては側面跳び式で、飛距離・フォーム・命中度ともに綺麗な形で決めていた。
入場テーマ曲 [編集]

疾風のライダー
Training Montage
代表的な入場曲。
POWER OF GLORY 〜高田延彦のテーマ〜
経歴 [編集]

1980年3月、新日本プロレスに入門。翌年デビュー。
1984年、第1次UWFに参加。
1986年、新日本プロレスに復帰。
1988年、第2次UWFに参加。
1991年、UWFインターナショナル旗揚げ。
1994年、元新体操選手で女優・タレントの向井亜紀と結婚。同年4月から翌年3月までフジテレビで「スポーツWAVE」のキャスターを務める。
1995年、6月に「近い将来引退します」と発言。7月にさわやか新党代表として第17回参院選に比例代表区から出馬するも落選。
1996年1月4日、前年10月9日にタイトルマッチで敗れた武藤敬司に勝利して第18代IWGPヘビー級王者となる(防衛1回)。
1996年9月11日、神宮球場で天龍源一郎とのシングルマッチに勝利。この試合は年間最高試合賞となった。
1997年10月11日、PRIDE.1でヒクソン・グレイシーとの試合に臨むも、敗戦を喫した。
2002年3月、向井亜紀原作『16週〜あなたといた幸せな時間〜』がフジテレビでドラマ化される。松下由樹が向井役、沢村一樹が高田役を熱演。
2002年11月24日、田村潔司との試合で引退。
現在は高田道場社長を務める。
【2011/01/01 01:33 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスと高橋冬樹
├─≠ョ─ヵラス あすなろ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 熱狂的な大阪近鉄バファローズのファンである(あった)。
【2011/01/01 01:32 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスと高野拳磁
├─≠ョ─ヵラス ミサイルキック
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 街中で偶然蝶野正洋に出会い、蝶野が高級車に乗っていたのを見て寂しい思いをしたこともあったという
【2011/01/01 01:31 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
高野攘治
高野 讓治(たかの じょうじ、1958年6月23日 - )は、福岡県北九州市出身のプロレスラー、元俳優、元大相撲力士。大相撲時代の四股名は高野(たかの)。プロレスにおけるリングネームは「ジョージ高野」、覆面レスラー「ザ・コブラ」。正統派のストロングスタイルで、アントニオ猪木らとも臆することなく挑んでいったファイティングスピリットは往年のレスリングファンに知られている。プロレスラーの高野拳磁は実の弟。
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1 来歴
1.1 新日本プロレス入門前
1.2 新日本プロレス在籍時
1.3 SWS移籍後
2 ザ・コブラ
3 リングネーム
4 逸話
5 獲得タイトル
6 脚注
7 外部リンク
来歴 [編集]

新日本プロレス入門前 [編集]
父は岩国基地に所属していたアメリカ海兵隊員で、隊内のボクシング王者にもなっている。大相撲の大鵬部屋に15歳で入門し、高野の四股名で1974年3月場所で初土俵を踏む。しかし1976年1月場所では番付外となり、そのまま廃業する。最高位は序二段34枚目。
新日本プロレス在籍時 [編集]
大相撲廃業後、1976年8月に新日本プロレスへ入団。デビュー前からTV特撮番組『プロレスの星 アステカイザー』に主人公のライバル役として出演した。この時、菅原文太の弟子として俳優に本格転向する予定もあったが、新日へ復帰し、1977年2月10日にデビューした。そして抜群の運動能力と端正な顔立ちで若手の注目選手となる。その人気には前田日明も強く嫉妬したほどだった。なお、前田や平田淳二(現平田淳嗣)らと同期扱いをされる事が多いが、これは上記の俳優転進〜新日復帰の経緯によるブランクのためである。実際は佐山サトルと同期であり、デビュー戦の相手も彼である。
1982年1月にメキシコへ遠征。二年連続最優秀外国人選手賞を受賞するなど墨国マット界で活躍の後、翌年カルガリーに転戦。自身のヒール志向の実現のため覆面レスラーのザ・コブラとしてダイナマイト・キッドらと抗争を展開する。1983年夏の初代タイガーマスクの突然の新日本プロレス退社によって、その新日本Jr戦線の後継者として凱旋帰国を促されるも一度は辞退。その後師匠アントニオ猪木自らの説得により帰国を決意、11月3日の日本デビュー戦でNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。その後もジュニア戦線のトップとして活躍した。ザ・コブラとしての詳細な活動については別項で述べる。
1986年6月にザ・コブラは姿を消して海外へ。すぐに覆面を脱いだジョージ高野の姿でヘビー級として「凱旋」。凱旋試合では後楽園ホールの2階席からスポットライトを浴びて登場し、テレビ放映もされた。しかしその後はタイトル戦線に絡むことがなく、活躍の機会もなかった。
1989年にスーパー・ストロング・マシンとユニットを結成。ユニット名はテレビで公募されていたが、結局ジョージ自らが発案した烈風隊という名前となった。3月16日、長州力・マサ斎藤組を破り、IWGPタッグ王座を獲得した。ヘビー級転向後初のタイトルである。しかし7月16日に長州力と若手の飯塚孝之組に敗れて陥落。その後烈風隊は、目立った活動が見られないまま自然消滅する。
SWS移籍後 [編集]
1990年4月27日のNKホール大会でマシンvsコブラがマッチメイクされたが、高野は4月1日に新日本プロレスからSWSへ移籍した。SWSでは3つの道場が設立され、高野は弟で全日本プロレスに移籍していた高野俊二(現高野拳磁)ら主に元新日本勢と「パライストラ」を結成し、道場主(エース)となる。旗揚げ戦のメインイベントにおけるタッグマッチでは、「REVOLUTION」道場主である天龍源一郎からピンフォール勝ちを奪うなど活躍した。
1992年のSWS解散後、ケンドー・ナガサキたちとNOWを旗揚げする。しかし旗揚げ戦後にジョージと俊二は離脱し、二人で1993年にPWCを設立した。だが、翌年にジョージが離脱。1995年に妻の実家がある北海道釧路市でFSRを設立し、タイガーマスク(佐山サトル)との一騎打ちで旗揚げ戦を行なった。しかしFSRは選手がジョージと若手しかいなかったこともあり、1997年に活動を停止。その後は故郷である九州に戻り、リングから離れた。
2001年4月18日のZERO-ONE日本武道館大会で星川尚浩を相手にリングへ復帰、覆面を被りザ・コブラの名前で参戦した。体重はかつての細身の身体とは見違えるほどに増加していた。以後、同団体に数回参戦。同年の第1回火祭りにはジャスティン・マッコリーの代打として、ジョージ高野の名で覆面を被ったまま参戦。同じブロックの田中将斗と両者リングアウトで引き分けただけの2敗1分に終わった。
2002年4月24日の新日本プロレス西日本総合展示場大会で、「30周年スペシャルマッチ」として素顔で登場。SWS移籍後、初めて古巣のリングに上がった。蝶野正洋とタッグを組み、中西学・吉江豊組と対戦し勝利。ジョージ高野としてはこの試合を最後に、リングには上がっていない。同年10月13日に東京ドームホテルで開かれた「新日本プロレス創立30周年記念パーティー」ではOBとして壇上で挨拶した。なお、ザ・コブラとしては2004年7月10日PVVC博多スターレーンにおける初代タイガーマスク、ザ・コブラVS維新力、折原昌夫が現時点でのラストマッチとなっている。
2004年3月に別冊宝島の企画で受けたインタビュー(『プロレススキャンダル事件史3』所収)において、外壁の施工工事の仕事に関わっている事、レスラーの活動がほとんど出来ていないが、引退はしていない事、活動を休止しているがFSRは消滅していない事を語った。2007年10月4日放送のアメトーーク!(ANN系列)「昭和プロレス芸人」の放送の中で、現在は電柱を埋める仕事に就いていることが伝えられた。同年12月7日にイノキ・ゲノム・フェデレーション公式サイトで「猪木ミニ・ミュージアム」の館長に就任したことが発表されている[1]。またNPO法人設立などを経て、2009年に福岡市にあるシステム開発会社の統括ジェネラルマネージャーに就任している[2]。
ザ・コブラ [編集]

ザ・コブラ(The Cobra)は、かつて高野が名乗っていた覆面レスラーのリングネームである。初代タイガーマスクが突如引退を表明し新日本プロレスのリングを去ったため、その穴を埋めるべく用意された。カナダ・カルガリーマットでデビュー。ニックネームは「謎のアストロノーズ」、入場曲は「THE HEAT GOES ON」(エイジア)。
当初、『ワールドプロレスリング』で日本デビュー前から正体不明の謎のマスクマンとして紹介され、帰国時には成田空港でマスク姿のザ・コブラに突撃インタビューをする等、団体の期待は高かった。しかし、一部マスコミがザ・コブラ誕生の経緯を報じており、少なからず正体は知られていた。日本デビューは、1983年11月3日に蔵前国技館で行われたザ・バンピート戦で、空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座が掛けられた。コブラは白いタキシードを身につけ、白煙の中をタイガーマスクやミル・マスカラスなどの有名覆面レスラーのマスクを被った若手選手が担ぐ神輿に乗って入場し、コーナーのトップからバック宙返りでリングインした。
しかし対戦相手のデイビーボーイ・スミスが、試合開始前に新日本プロレスに命じられたギミックに納得しておらず、「ザ・バンピート」なる覆面レスラーのマスクを自ら脱ぎ捨て正体を明かし、そのままコブラをリング下に投げ捨て、攻撃を加えるなど、波乱を予想させる出だしを見せた。
田中秀和リングアナによってスミス、コブラのコールがされた後、ようやく試合が開始。しかしグラウンド戦が続くうちにスミスがコブラの技を受けようとしない行為が目立ちはじめ、さらにはコブラが仕掛けたトップロープ越しのノータッチプランチャをスミスが交わしたため、コブラは鉄柵と床へ激突し、両膝に大ダメージを受けた。両者共に決め手を欠く試合展開は長期戦となり、技の失敗もあって結果的にこのデビュー戦は凡戦となる。このことが初代タイガーマスク対ダイナマイト・キッド戦の再来を期待したファンや関係者を落胆させ、いかに初戦のインパクトが重要であるかを示した格好となった。
後日のテレビ放映では、試合途中からダイジェストとなっている。またプランチャを仕掛けたところでは、スミスが交わしたところでストップし、鉄柵に衝突する場面がカットされた。またテレビではカットされているが、このデビュー戦で場内から「高野コール」が起き、必然的に正体が知られることとなった。
コブラはその後NWA世界ジュニアヘビー、WWFジュニアヘビー級の二冠王となるが、団体の都合や業務提携の解消から1985年に2本とも返上。それを受け、IWGPジュニアヘビー級王座が創設。リーグ戦が開かれ、1986年2月6日に両国国技館で越中詩郎と初代チャンピオンの座をかけて対戦するが、あえなく敗退。さらに越中を破って第2代チャンピオンとなった高田伸彦とも同年6月17日に愛知県体育館で対戦したが、両者リングアウトでタイトル獲得はならなかった。この試合を最後に、「キング・コブラになって帰ってくる」と言い残し、ザ・コブラは消えた。しかし実際は、結婚を発表し素顔に戻っただけだった。
デビュー戦で期待以上のインパクトを残した初代タイガーマスクと、スミスのギミック破りに遭い怪我をしたザ・コブラは常に比較され、アニメも同時放送されメディアミックスが成功した初代タイガーマスクのようなチビッコファンのアイドルにはなれなかった。しかし、その美しい体格と群を抜く運動能力で20代のファンには人気が高かった。また、キッドやスミス、小林邦昭、ヒロ斎藤などの好敵手が相次いで他団体へ移籍していったことよる挑戦者不足や、185cmという長身がジュニア戦士としてはマイナスとなり、キャラクターとしては大成しなかった。なお「スコードロン・サンダー」なる必殺技を持つことがプロレスマスコミによって報道されていたが、その完成形は一度も披露されなかった。
リングネーム [編集]

現在、過去に用いたことがあるリングネーム
ジョージ高野
ザ・コブラ
逸話 [編集]

端正な顔立ちだが鼻骨がない。若手時代に前田日明にキックで砕かれ、骨を抜いてしまった。昔の新日本の激しさを象徴する逸話となっており、押すとグニャグニャしているためインタビューなどで記者を驚かせる。
若手時代、風呂上りに鍛え抜かれた肉体を鏡の前で誇示していた。
ザ・コブラ時代には膝の怪我に悩まされていた。知人より「よく効く整体がある」と骨法整体を勧められたことをきっかけに通い始め、後に、猪木の骨法特訓(対レオン・スピンクス戦の前)、山田恵一・船木優治らの骨法入門へと繋がる。
初対面のアントニオ猪木をストロング小林と間違えた。
タッグリーグ戦に木村健悟と組んでエントリーした際、アントニオ猪木はこのチームとの対戦を非常に嫌がった。また高野のツームストーン・パイルドライバーで猪木は数日間首を痛めたことが、田中秀和の旅日記で紹介されている。
『プロレスの星 アステカイザー』では当初、主役を予定されていたが、スケジュール的に不可能という事で断念したという。最終的に主人公のライバルという形で出演した。
獲得タイトル [編集]

IWGPタッグ王座
NWA世界ジュニアヘビー級王座
WWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座
英連邦ミッドヘビー級王座
【2010/12/31 00:40 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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