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【2025/04/29 03:37 】 |
デビッド・シュルツ
デビッド・シュルツ(David "Dr. D" Schultz、1955年6月1日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の元プロレスラー。生年は1950年ともされる[1]。
引退後は犯罪者を捕えて報酬を得るプロのバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)として活躍している[2]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 得意技
4 獲得タイトル
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]

ハイスクール時代はアメリカンフットボールの選手だったが、膝を負傷してプロ入りを断念[1]、1974年に地元テネシー州のNWAミッドアメリカ地区でプロレスラーとしてデビュー。以降テネシーを主戦場に、アラバマのガルフ・コースト地区やカナダのマリタイム地区(ノバスコシア、ニューブランズウィック)にも転戦してキャリアを積む。喧嘩ファイトを身上とするヒールとして頭角を現し、荒っぽい試合スタイルが多いことから当時「無法地帯」と呼ばれていたテネシーでも名うてのラフファイターに成長した。
1978年には国際プロレスに初来日(表記は「ダビッド・ショルツ」)。シリーズのエース格だったオックス・ベーカーの相棒となって、ラッシャー木村やアニマル浜口と流血戦を演じた。翌1979年にはテネシー州ノックスビルでデニス・コンドリーをパートナーに、ディック・スレーター&ポール・オーンドーフからNWAサウスイースタン・タッグ王座を奪取している[3]。テネシーではその後もメンフィスのCWAでコンドリーとコンビを組み、ジェリー・ローラー、ビル・ダンディー、ジミー・バリアント、リッキーとロバートのギブソン・ブラザーズなどと抗争した[4]。
1981年から1982年にかけてはカナダ・アルバータ州カルガリーのスタンピード・レスリングに参戦、ブレット・ハートやミスター・ヒトを破り、メインタイトルの北米ヘビー級王座を通算3回獲得した[5]。1982年7月18日にはエドモントンにて、カルガリー地区に遠征してきたニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦[6]。これを機に翌1983年にAWAと契約し、メジャーテリトリーへの本格的な進出を果たした。AWAではミスター・サイトーのパートナーとなってハルク・ホーガンと抗争を展開。その活躍ぶりをビンス・マクマホンに認められ、ホーガンと同時期にWWFに移籍する。ホーガンとの抗争はWWFでも継続させ、1984年よりスタートしたWWFの全米進出サーキットではAWA圏侵攻の目玉カードとしてホーガン対シュルツのWWF世界王座戦が組まれた。同年7月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参加している。
しかし1984年12月28日、ニューヨークのMSGでの試合前にABCアナウンサーのジョン・ストッセルの取材を受け、プロレスの内部事情に関する質問に激高。殴打事件を起こしたために謹慎処分を受け、後に解雇される[7][8]。なお当日、シュルツは日本から遠征してきたアントニオ猪木と対戦し[9]、この試合は日本でも放送された。当時のWWFにおいてシュルツはロディ・パイパー&ポール・オーンドーフとヒール・ユニットを結成しており、パイパーの用心棒として活躍していたが、その役どころをカウボーイ・ボブ・オートンに譲ることとなった。
WWF解雇後は各地を転戦し、古巣メンフィスのCWAではWWF入り前のランディ・サベージともタッグを組んでいる。ディノ・ブラボーらが主宰していたカナダのモントリオール地区では、1986年11月にグレート・サムゥことサムラ・アノアイを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した[10]。
1987年に引退してからはバウンティ・ハンターに転身。世界を股にかけて犯罪者を追跡し、FBIやDEAをはじめ各地の警察機関の捜査に協力している(現在までの逮捕者数は約1700人といわれている)。引退後は1990年代にWWFのステロイド裁判に原告側の証人として出廷[2]した以外はプロレスリング業界との関わりを絶っていたが、近年はファンが主宰するイベントなどに登場している[11]。
エピソード [編集]

ジョン・ストッセル殴打事件をベースに、1985年3月の新日本プロレスへの再来日時には古舘伊知郎を殴打するというアングルが組まれたが、以降も日本に定着することはなく、これが最後の来日となった。
リング外でも気性が激しかったようで、ダイナマイト・キッドの自著では、キッドにけしかけられたシュルツがドレッシング・ルームでハルク・ホーガンと乱闘を起こしたエピソードが書かれている[12]。
バウンティ・ハンターに転身後、日本では「犯人に射殺された」という誤報が報じられたことがあった。
得意技 [編集]

ハングマンズ・ホールド
ツームストーン・パイルドライバー
ダイビング・エルボー・ドロップ
ナックル・パンチ
獲得タイトル [編集]

NWAミッドアメリカ / CWA
NWAミッドアメリカ・タッグ王座:1回(w / ビル・アッシュ)
NWA6人タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / トージョー・ヤマモト&グレート・トーゴー)
NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):2回(w / ロジャー・カービー、ダッチ・マンテル)
AWA南部タッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)
NWAアラバマ / SECW
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(南部版):1回
NWAサウスイースタン・タッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)
スタンピード・レスリング
スタンピード北米ヘビー級王座:3回
その他
NWAカナディアン・ヘビー級王座(ハリファックス版):1回
カナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版):1回
脚注 [編集]

^ a b 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P41(2002年、日本スポーツ出版社)
^ a b “Wrestler Profiles: "Dr. D" David Schultz”. Online World of Wrestling. 2009年4月4日閲覧。
^ “NWA Southeastern Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月7日閲覧。
^ “Memphis Wrestling History 1980”. Memphis Wrestling History. 2010年8月27日閲覧。
^ “Stampede North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月27日閲覧。
^ “The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1982”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月27日閲覧。
^ “ABC Reporter May Sue Wrestler Who Hit Him”. New York Times(February 23, 1985). 2009年4月4日閲覧。
^ “Old-School Sundays: Dr. D David Shultz-Andre the Giant!”. Wrestlers Ramblings. 2010年2月16日閲覧。
^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1980-1989”. The History of WWE. 2009年4月4日閲覧。
^ “International Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年11月3日閲覧。
^ “Dr. D dominates PWHF dinner”. SLAM! Wrestling(October 9, 2006). 2009年4月4日閲覧。
^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P146(2001年、エンターブレイン) ISBN 4-7577-0639-1
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【2011/01/05 02:01 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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