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【2025/04/30 00:32 】 |
バーブラ・ストライサンド
バーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand、本名Barbara Joan Streisand,1942年4月24日 - )は、アメリカ合衆国の歌手、女優、作曲家、映画プロデューサー、映画監督。米ショービジネス界で最も成功した大スターのひとり。
ニューヨークのブルックリンで育つ。1962年に歌手としてデビュー。代表曲は「ピープル」、「追憶」等。女優としても活躍し、自身の映画出演作の主題歌を歌ったり、楽曲の提供などもしている。
アカデミー賞は、『ファニー・ガール』で主演女優賞を、『スター誕生』で作曲家としてアカデミー歌曲賞と2度受賞している。また、複数のエミー賞、グラミー賞、ゴールデングローブ賞、およびトニー賞を受賞している。
映画監督としては『愛のイエントル』でデビュー。主演・脚本・製作、そして主題歌と5役を務めた。『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』はアカデミー賞の作品賞で候補にあがったが、彼女は監督賞候補にならなかった。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 少女時代
1.2 初期の芸能活動
1.3 歌手としてのキャリア
1.4 映画でのキャリア
2 受賞
3 私生活
3.1 ポップカルチャーでの描写
4 主な作品
4.1 音楽
4.1.1 アルバム・ディスコグラフィ
4.1.2 代表曲
4.2 映画出演
5 参考資料
6 外部リンク
来歴 [編集]

少女時代 [編集]
米国ニューヨーク市のウィリアムズバーグでユダヤ系の家族のもとに生まれ、バーバラ・ジョアン・ストライサンド(Barbara Joan Streisand)と名づけられた彼女は、生後まもなくしてブルックリンへと引っ越す。グラマースクールで文法学の教師をしていた父親のエマニュエルは、彼女が生後わずか15ヶ月のときに亡くなり、継父のルイス・カインドと彼女は不穏な関係であった。母親のダイアナ・アイダ・ローゼンはバーブラが魅力的ではないと感じ、娘にショービジネスを勧めることはなかった。この事が、バーブラが長年、ショービジネス界での数々の成功にもかかわらず自分の容姿にコンプレックスを持ち続けた理由ではないかとされている。
1959年、エラスムス・ホール高校を4番目の成績で卒業。高校ではニール・ダイアモンドと共に合唱部に所属していた。大学へは進学していない。
ストライサンドは、「育ったときはそこ(ブルックリン)は嫌いだったけれど、今はわたしのルーツから力をもらっていると感じる」と述べている(2006年10月17日のトロントコンサートで)。
初期の芸能活動 [編集]
10代の頃にナイトクラブで歌手としてデビュー。しかし本来は女優志望で、数々のオフオフブロードウェイ演劇に出演していた。当時野心的だった女優ジョアン・リバーズと競演したこともある。ボーイフレンドだったバリー・デネンがクラブで働くように支援したため、1960年、マンハッタンにあるゲイバーで演じたことにより、歌手として成功をおさめた。それと同時期に、ユニークさを出したいと考えたストライサンドは自身の名前をバーブラ(Barbra)に縮めている。
1962年にはミュージカル『あなたには卸値で』でブロードウェイに出演し、その後コロムビア・レコードと契約を結んだ。彼女のデビューアルバム『ザ・バーブラ・ストライサンド・アルバム』は1963年に2つのグラミー賞を受賞した。その後、彼女の人気は低迷することなく、デビュー作から3作目までが同時にビルボードのポップ・アルバム部門のトップテンに入った。当時はロックンロールやビートルズがヒットチャートの大半を占めていたことから、彼女の功績は異例の快挙だと見なされた。
ファニー・ブライスの生涯を題材にした、ジュール・スタインとボブ・メリルの音楽による1964年の『ファニー・ガール』は、『あなたには卸値で』におけるストライサンドのパフォーマンスを見たスタインが彼女のために制作したブロードウェイ・ミュージカルである。しかしショーのプロデューサー、レイ・スタークの妻だったブライスの娘は、ストライサンドをキャスティングするのを強く反対し、彼女よりキャロル・バーネットのほうを好んだという。
テレビ出演も多く果たしたストライサンドは、米国のCBSチャンネルで多くのスペシャル番組に出演。特に最初のスペシャル番組であった1965年の『マイ・ネーム・イズ・バーブラ』は多くのファンや批評家によって賞賛された。
ストライサンドは1967年以降舞台には出演せず、1970年代から1990年代前半にかけてはコンサート活動からも遠ざかった。これはユダヤ系アメリカ人として政治的な姿勢を明確に表明していた彼女への脅迫行為が多発していたためで、以降彼女はレコードと映画を活動の中心とした。
歌手としてのキャリア [編集]
バーブラ・ストライサンドは60作以上のアルバムを録音しているが、その殆どがコロムビア・レコード・レーベルから発売されたものである。1960年代に発表された初期の作品は、アイロニックで見事な「幸せの日は再び」をはじめとする劇場やナイトクラブで歌われるスタンダード曲を主とした古典的な表現に徹した作品だと考えられている。
1969年からは作曲家としても活動をはじめ、ロックへの路線変更を試みて試行錯誤する。最終的にリチャード・ペリーがプロデュースした1971年の『ストーニー・エンド』の成功によって、ポップやバラード志向に定着した。ローラ・ニーロが作曲したこのアルバムの表題作は大きなヒット曲になった。1970年代のあいだ、ストライサンドは「追憶」「スター誕生の愛のテーマ」「ノー・モア・ティアーズ」や「ウーマン・イン・ラヴ」など、主に彼女の映画のサウンドトラックに使用された楽曲でチャートの首位に輝き、ポップチャート上でも際立った存在だった。
1970年代の終わりには、米国で最も成功した女性歌手として認識された。彼女のアルバムのセールスは凄まじく、当時彼女より多くのアルバムを売り上げていたのはエルヴィス・プレスリーとビートルズだけであった。[1] 1982年に、音楽評論家のスティーヴン・ホールデンは彼女を「フランク・シナトラ以来最も影響力のある米国ポップ歌手」と評している。
1980年、ビー・ジーズのバリー・ギブによるプロデュース作「ギルティ」を発売、彼女自身最大のヒットアルバムとなった。グラミー賞も受賞した。
1985年のアルバム『追憶のブロードウェイ』で、ストライサンドは彼女の原点であるミュージカル的な作風に回帰する。このアルバムはビルボードの首位を3週連続キープして3xプラチナとして認証され、思いがけない成功をもたらした。レコーディングのためにスティーヴン・ソンドハイムによって特別に作り直されたミュージカル・ナンバーを収めたこのアルバムは高い評価を受け、グラミー賞で「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にノミネートされた。ストライサンド自身も最優秀女性歌手部門において、彼女にとって8度目の同賞を受賞している。
1991年には、『ジャスト・フォー・ザ・レコード』と題された4枚組のCDボックスセットが発売された。このアルバムにはライブ音源やヒット曲、それに初期から1991年までに録音されたレア音源など、70曲以上が収録されている。
1992年ごろは、音楽的成功はストライサンドにとって関心ごとではなかった。ビル・クリントンとの関係から、ニューヨーク・タイムズは彼女を再び「最も有力なエンターテイナー」であると宣言した。ストライサンドが行った資金集めのコンサートは、クリントンをスポットライトに送り込む手助けをした。クリントンがアメリカ合衆国の大統領に就任した際には、ストライサンドが彼を紹介している。[2]
しかしながら、政治活動のためにストライサンドの音楽的キャリアは中断していた。そこで、ツアーが提案され、彼女はそのために2年もの歳月にわたって話し合いを行った。そして、それから1年後の1993年にショー・チューンを集めたアルバム『バック・トゥ・ブロードウェイ』で再び全米チャートの1位を記録すると、同年の9月には27年ぶりのコンサート・ツアーを行うと発表した。この限られたツアーへのチケットは1時間未満で売り切れた。また、主要な雑誌の表紙も飾った彼女のツアーを、タイム誌は“世紀の音楽イベント”になると予測した。ツアーは全てのメディアにおいて、史上最も大規模な交渉を生む商品となった。チケットの値段は50ドルから1500ドルへと高騰し、ストライサンドを史上最も高価なパフォーマーにした。ザ・コンサートはその年アメリカ国内で最も高い収益を得たコンサートになり、2つのエミー賞とピーボディ賞を受賞した。HBOでオンエアされた録画放送は、HBOのこれまでの30年以上の歴史の中で最も高視聴率を記録したコンサート特番である。
1999年の大晦日、彼女はコンサートのステージに復帰する。“Timeless”と題された。そして、これまでのラスベガスの歴史における単独での歌手のコンサートとしては、最大級の収益をあげる記録をなしとげた。世紀末の時点で彼女は、デビュー以来各年代で最低2枚1位を記録したアルバムがある、アメリカ最高の女性シンガーであった。ラスベガスでのコンサートのあと、オーストラリア、ロサンゼルスそして、故郷であるニューヨークなどで公演を行うと、彼女は2000年にコンサート活動を停止する。
彼女の近年のアルバムには2001年の『クリスマス・メモリーズ』や、大規模なオーケストラの演奏をバックに有名映画の主題歌を歌ったものを集めた2003年の『ムーヴィー・アルバム』などがある。最新作はバリー・ギブとの共演による『ギルティ』の続編『ギルティ・プレジャーズ』(イギリスでは『ギルティ・トゥー』として発売された)で、2005年に世界発売された。
2006年2月、マリブの自宅でトニー・ベネットと共に「スマイル」を収録。10月4日にフィラデルフィアのワチョビアセンターで始まった6年ぶりのコンサート・ツアーは「ストライサンド:ザ・ツアー」とのみ呼ばれている。スペシャルゲストのイル・ディーヴォがオープニングを勤めた。
2006年10月9日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサート。 ジョージ・W・ブッシュ大統領を揶揄するスキットを披露した。スキットの後で野次を飛ばし続ける一人の観客に対し、ストライサンドは「黙れ!」と怒鳴りつけ、後に陳謝したが、「秩序をかき乱すのも芸術家の役割」と付け加えた。
2006年10月30日、同じスキットで、一人のファンがストライサンドにカップを投げつけた。 これに対し、マネージャーのマーティン・エーリッヒマンは「ここは自由の国であり自分の意見を述べる権利がある」と回答した。
2007年、13年ぶりのヨーロッパ・ツアーをロンドン、パリなどで行う。
2009年10月、4年ぶりのアルバム"Love Is The Answer"を発売。Billboard 200チャートで初登場1位を飾り、1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代の全てで首位を獲得した。また女性アーティスト最多記録を更新するの9作目の首位となった。
多くのアーティストと同様、ストライサンドは自分の作品について議論することを好まないことで知られる。そして収録が終わるや否や、それは「終わったもの」として忘れてしまうことが多いのだという。彼女は、多くの彼女の歌は題名すら思い出せないと述べている。
日本では一度も来日公演が行われておらず、未だ来日していない大物アーティストの一人である。(来日は、映画『スター誕生』のプロモーションで一度来日している。)
映画でのキャリア [編集]
彼女の最初の映画は、ブロードウェイでの最初のヒット作『ファニー・ガール』(1968年)の翻案だったが、芸術的、商業的成功を収め、1968年のアカデミー賞最優秀女優賞を、キャサリン・ヘップバーンと共に受賞する。これはオスカー初の引き分けとなった。これに続く2作の映画、ジェリー・ハーマンの『ハロー、ドーリー!』(1969年)とアラン・ジェイ・ラーナーとバートン・レーンの『晴れた日に永遠が見える』(1970年)もミュージカルの翻案であった。4番目の映画はブロードウェイ演劇『フクロウと子猫ちゃん』(1970年)を下敷きにしている。
彼女はオリジナルのスクリューボールコメディーにも出演している。『おかしなおかしな大追跡』(1972年)ではライアン・オニールと共演、『またまたおかしな大追跡』(1974年)及びドラマ『追憶』ではロバート・レッドフォードと共演している。彼女の2番目のアカデミー賞は、『スター誕生』(1976年)の歌「エバーグリーン」の作曲家として、オリジナル歌曲賞を獲得している。この賞を女性が獲得したのはこれが初めてである。1969年、俳優が資産を確保し自分で映画プロジェクトを興せるようにするため、ポール・ニューマン、シドニー・ポインターと共に、ファーストアーティストプロダクションを興した。彼女のファーストアーティストとしての最初の出演は、『砂の城・人妻マーガレットの場合』(1972年)となった。
1970年の『フクロウと子猫ちゃん』で彼女のトップレスのシーンがあったが、彼女はこれを後悔して全てのフィルムを買い取り、問題のシーンを削除した。ハイソサエティ誌が彼女の胸の写真のオリジナルを出版したとき、彼女は同社を告訴した(後に自身の監督作『サウス・キャロライナ』でも撮影中のアクシデントで胸が露になってしまったが、本人はそのシーンを気に入り、本編で使うことにした。しかし、関係者による試写会での反応があまりにも大きすぎたため、ストーリーの流れを止めてしまうと思い、最終的にはカットされた)。
ストライサンドは自分自身の映画を数多く製作し、1972年にバーウッドフィルムを興した。『愛のイエントル』(1983年)では、プロデューサ、監督、脚本、主演を兼任し、『サウス・キャロライナ/愛と追憶の彼方』(1991年)までこれが続く。
『愛のイエントル』はその新人離れした完成度がスティーブン・スピルバーグやフェデリコ・フェリーニらに絶賛される一方で、作中のフェミニズム思想の強さが批判、反発を呼ぶ作品となった。ゴールデングローブ賞では6部門にノミネートし、作品賞と監督賞を受賞するが、アカデミー賞では主要なカテゴリーである最優秀作品賞、最優秀女優賞、最優秀監督賞のいずれにもノミネートすらされず、議論となった。『サウス・キャロライナ』は、最優秀映像賞を含むより多くの候補になったが、例によって最優秀監督賞の候補には漏れた。
2004年、8年間の空白を破り、コメディー『ミート・ザ・ペアレンツ2』で映画に復帰した。ここでダスティン・ホフマン、ベン・スティラーおよびロバート・デニーロと競演している。
受賞 [編集]

ストライサンドが手がけたあらゆる媒体において、彼女は賞を取ってきた。オスカー2回、エミー賞6回、ゴールデングローブ賞11回、グラミー賞10回、トニー賞1回、ケーブルエース賞2回、アメリカ映画協会の生涯成績賞、そのほか数多くの賞を取っている。
1995年、グラミー生涯成績賞を取った。2005年、彼女の米国でのアルバム売り上げは、女性アーティストで全米トップセールス記録を達成した。
トニー賞は特別な「この10年間のスター」を表彰するものであるが、ストライサンドはオスカー、トニー、エミーとグラミーを獲得した数少ない人たちの一人である(ほかにはヘレン・ヘイズ、リタ・モレノ、ライザ・ミネリ、ウーピー・ゴールドバーグがいる)。ただし、ストライサンドのトニー賞は通常の受賞ではなく名誉受賞であるため、受賞者には含まないことがある。
私生活 [編集]

バーブラ・ストライサンドは2度結婚した。彼女の最初の夫は俳優のエリオット・グールドで、1963年から1971年まで結婚していた。彼らには一人息子のジェイスン・ゴールドがおり、彼も俳優になっている。彼女の2度目の結婚相手は俳優のジェームズ・ブローリンで、1998年に再婚した。2人の結婚式の模様は克明に報道されている。 彼らのあいだに子供は生まれていないが、ブローリンには以前の2回の結婚生活で授かった3人の子供たちが存在する。
米民主党の熱烈な支持者で、多額の献金者として有名。政治的発言も数多い。
ポップカルチャーでの描写 [編集]
バーブラ・ストライサンドの象徴的な姿は、スケッチコメディー番組『サタデーナイトライブ』のスキット「コーヒートーク」で繰り返しパロディー化されてきた。このスキットでは、マイク・マイヤーズが演じるキャラクター、リンダ・リッチマンがストライサンドを賞賛するトークショーを司会する。『ザ・コンサート』のDVDではリンダが客席から登場するシーンが収録されている。
バーブラ・ストライサンドは『サウスパーク』で繰り返し風刺された。例えば、シーズン1第10話「メカ・ストライサンドの大迷惑」の回では、ストライサンドが巨大ロボに変身して世界征服を企む。また、「殺人金魚の事件簿」の回では、画面の四隅がストライサンドの顔になっている。別の回では、罵倒語の一種として彼女の名前が使われる。ただ、映画版『サウスパーク』がミュージカル仕立てで製作されている事などを考えると、バーブラを揶揄するのは一種の愛情表現ではないかと思われる。シーズン14第5話「200」の回では生まれ変わったメカ・ストライサンドのテーマ曲として「バーブラバーブラ 一番嫌いな人 バーブラバーブラ 鼻が大きい」と明確に日本語で歌われているのも事実である.
映画『Waiting for Guffman』では、登場人物の一人がコーキーを褒めてこう言う台詞がある: 「彼は歌って監督もしてプロデュースもできるんだ。彼以外にそんなことが唯一できるのは……バーブラ・ストライサンドだ」
バーブラ好きの男はゲイである、という一部の偏見をネタにしたのがフランク・オズ監督、ケビン・クライン主演の映画『イン&アウト』。ゲイであると周囲に疑われる主人公の、ゲイっ気を示すネタの一つとしてバーブラ趣味が使われている。何とかゲイ疑惑を払拭したい主人公は、(本当は大好きな)バーブラの映画を仲間内で必死に否定してみせるのだが、調子に乗った仲間の一人が「『愛のイエントル』はクズだ」と口にしたとたん、その男に掴みかかって大喧嘩を起こすのだ。
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【2011/01/08 18:28 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
シャロン・ストーン
シャロン・ストーン(Sharon Stone、本名:Sharon Vonne Stone、1958年3月10日 - )は、アメリカ合衆国の女優。
目次 [非表示]
1 プロフィール
1.1 来歴
1.2 私生活
1.3 チャリティ
2 論争
3 主な出演作品
4 脚注
5 外部リンク
プロフィール [編集]

来歴 [編集]
ペンシルベニア州出身のアイルランド系[1]。子供の頃IQが154と高かったことも有名。飛び級により15歳で高校に進学した年に奨学金を得て州立エディンボロ大学演劇科に進むが中退。その後ミス・ペンシルベニアコンテストで優勝。ニューヨークでフォード社のファッションモデルで成功を収め、念願の映画デビューを果たす。
1980年にウディ・アレンの作品『スターダスト・メモリー』の端役で映画デビュー。以降B級作品で活躍していたが1990年の『トータル・リコール』でアーノルド・シュワルツェネッガーの相手役で注目され、同監督の『氷の微笑』では、セクシーでミステリアスな小説家を演じ一躍世界的なセックスシンボルに躍り出た。取調室で足を組みかえるシーンは、数多くのパロディ作品に出てくる。
1995年3月26日に、映画『わかれ路』『スペシャリスト』出演により第15回ゴールデンラズベリー賞最低主演女優賞を、映画『スペシャリスト』出演によりシルヴェスター・スタローンと共に同最低スクリーンカップル賞を受賞。
2007年2月24日に第27回ゴールデンラズベリー賞最低作品賞、最低序章・続編賞、最低脚本賞を受賞した映画『氷の微笑2』出演により、同最低主演女優賞を受賞。
日本では、銀座ジュエリーマキやヴァーナルのCMキャラクターに起用されていた。
私生活 [編集]
助監督と1984年に結婚1987年に離婚。 ジャーナリストと1998年に結婚2004年に離婚。 3人の養子(全て男子)がいる。


シャロン・ストーン(1991年)
映画『トータル・リコール』(1990)の公開から間もないとき、ロサンゼルスのサンセット大通りで事故にあった。彼女は事故後すぐに家に帰り、脳震盪を起こしていたことには気づいていなかった。目が覚めたときには完全に麻痺状態にあり、三日間もの間床の上に横たわり泣くしかなかった。最終的に彼女が病院に行けたとき、その脳震盪は肩と顎の骨の脱臼と複数の肋骨の骨折、三つの椎間板の圧迫によるものだと診察された。
長い間、メンサの会員であるとの噂があったが[2]、IQの高い人々のためのいかなる団体にも属したことがないと2002年に語っている[3]。
チャリティ [編集]
チャリティなどにも熱心で、エイズ治療研究を支持したり[4] 、同性愛者に対する権利運動に参加している。2005年スイスで行われた世界経済フォーラムのダボス会議において、蚊帳がないためにマラリアで命を落としている毎月15万人の子供についての報告をうけて、自ら1万ドルの寄付を宣言し、30人以上のビジネスリーダーから総額100万ドルの寄付金を集め、コンテナ12個分の蚊帳をタンザニアに送った[5]。
二人の娘を交通事故とエイズで失った老夫婦の「孫がいなくて寂しい」との声を聞き、その夫婦と養孫縁組をし、正式に自分の祖父母とした。
論争 [編集]

2008年5月25日、第61回カンヌ国際映画祭のレッドカーペットで、香港のテレビ局エンターテインメント・ニュースの取材に対して、多くの批判を受ける発言を行った。それは、中国で起きた四川大地震に尋ねられた際の彼女の以下のような評論だった。
“ ええ。興味深いことでした。最初に、あなたもご存じのように中国のチベット人に対する態度は好ましく思っていません。誰かがほかの人に対して思いやりがないということが好きじゃないですから。それで憂慮していました、どう考えるべきかどうしたらいいか。だって私はこのことが好きじゃないですから。それで北京オリンピックをどう捉えるべきか憂慮していました。彼らはダライ・ラマに対して思いやりがない。ダライ・ラマは私の友達の1人です。そして地震やいろんなよくないことが起きて、それで、これはカルマかもしれない、って思いました。あなたがよくないことをしたとき、悪いことが起きたっていうことあるでしょ?その後、私は、チベット政府から、彼らが役立ちに行きたがっているという手紙を受け取りました。 その手紙は私を泣かせました。 彼らは、私がそれに関して引用した文章を書くかどうか私に尋ねたので、「そうするでしょう」と、私は言いました。 そして、これは、私にとって非常に大きなレッスンでした。しばしば頭をたれて学ばなければならないこと。たとえ誰かがあなたに不親切であったとしても、人のために尽くさなければならないことということの。本当に、それは私には大きいレッスンでした。[6][7] ”
この発言により、香港及び中国国内で非難が噴出し、インターネット上ではシャロン・ストーンの出演映画や中国向けの広告塔を務めているクリスチャン・ディオールの不買運動呼びかけの書き込みがなされた[8][9][10]。29日に謝罪声明を出したが、クリスチャン・ディオールの中国向けの広告中止を決定した[11][12]。 なお、四川はチベット族が多く住む地域でもある。
【2011/01/08 18:27 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスとクリス・ブレナン
├─≠ョ─ヵラス フロントチョーク
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道で光岡エイジと対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ち。
【2011/01/07 21:13 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
クリス・ドールマン
クリス・ドールマン(Chris Dolman、男性、1945年2月17日 - )は、オランダの総合格闘家。アムステルダム出身。身長187cm、体重124kg。
格闘王国オランダのカリスマ的存在。多くの門弟を抱える。オランダの格闘家には、酒場などでバウンサー(用心棒)を兼ねている選手も少なくないが、ドールマンはその顔役でもある。現役時代の得意技は、裸絞め・レッグロック。赤鬼の異名で呼ばれていた。
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1 来歴
1.1 オランダ格闘技界での功績
2 主な戦績
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

ジョン・ブルミンの経営するトゥン・イェン道場に入門し、柔道を始める[1]。
アマチュア時代は柔道、サンボでヨーロッパ屈指の強豪として名を馳せた。
初来日は1976年。アントニオ猪木の異種格闘技戦の相手であるオランダの柔道王ウィレム・ルスカのセコンドとして、新日本プロレスのリングに登場。この試合で戦意喪失のルスカに、タオルを投げ込む。
1981年、アムステルダムでノールールの「パンクラチオン」大会を主催[1]。
1989年5月4日、第2次UWFの大阪球場大会で前田日明と対戦。リングス旗揚げの際には、新日本プロレスのオファーを断り前田に全面協力、リングス・オランダを設立。自らも選手として出場する他、ディック・フライやギルバート・アイブル、ピーター・アーツ、ジェラルド・ゴルドーら弟子や一流格闘家を送り込むなど、指導者やマッチメーカーとしてもリングス発展に力を注いだ。
荒くれ者の多いオランダ勢もドールマンが共に来日する時には、割とおとなしくしていたほどの親分的存在でもあった。
1995年2月19日、リングス・オランダとしての初興行「Free Fight Gara」をアムステルダムで開催[1]。
1995年4月28日、リングスでのヨープ・カステル戦を最後に50歳で引退した。現役引退後も格闘技の発展に尽力(後述)。リングスが活動停止した後もその看板を守り、年数回、リングスの名で大会を開催している。
オランダ格闘技界での功績 [編集]
リングスが旗揚げした時代、オランダ政府は総合格闘技等の拡大には消極的であった。格闘技大会を開くことも難しい状況の中で、ドールマンは政府と折衝を重ね、それを認めさせた。現在では、オランダにおいても総合格闘技やK-1、キックボクシング等の大会が数多く開催され、世界で活躍するプロ選手もあまた輩出している。
主な戦績 [編集]

通算戦績 953戦947勝6敗(リングス戦績は17戦14勝3敗)
獲得したタイトル数は40
1966年、ヨーロッパ柔道ジュニア選手権 優勝
1969年、サンボ世界選手権 優勝
1971年、オランダ柔道選手権 優勝
1974年、ヨーロッパ柔道選手権 準優勝
1978年、サンボ全米オープン選手権 優勝
1981年・1982年、サンボ世界選手権 準優勝
1985年、サンボ世界選手権 優勝
1992年、第1回リングス・メガバトルトーナメント 優勝
脚注 [編集]

^ a b c 竹内規和 『ザ・バーリトゥーダー 極強への挑戦』 フットワーク出版、1998年。
関連項目 [編集]

男子総合格闘家一覧
【2011/01/07 21:11 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
クラレンス・バイロン・ダラウェイ
クラレンス・バイロン・"CB"・ダラウェイ(Clarence Byron "CB" Dollaway、男性、1983年8月10日 - )は、アメリカ合衆国の総合格闘家。ミシガン州カラマズー出身。アリゾナ・コンバット・スポーツ所属。リアリティ番組「The Ultimate Fighter」のシーズン7において、ミドル級トーナメント準優勝の実績を有する。通常、名前の頭文字を取ってCBダラウェイと呼ばれる。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 The Ultimate Fighter
1.2 UFC
2 戦績
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
来歴 [編集]

アリゾナ州立大学でレスリングを行い、多くのタイトルを獲得した。
2006年11月10日、プロ総合格闘技デビュー。
The Ultimate Fighter [編集]
2008年、リアリティ番組「The Ultimate Fighter」のシーズン7に参加。初回のエリミネイションバウトに勝利し、クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン率いるチーム・ランペイジに所属。トーナメントではチーム・ランペイジの中で唯一準決勝に残るも、チーム・フォレストのアミール・サダローに敗れシーズンから脱落した。しかし、後に決勝進出を決めていたジェシー・テイラーが不祥事を起こし失格となり、特例となる敗者復活戦でティム・クレイダーを判定で破り、決勝進出を果たした。トーナメント決勝となる6月21日のフィナーレではアミール・サダローと再戦。下からの腕ひしぎ十字固めによりタップアウトし、プロ公式戦初敗北を喫するとともに、シーズンでは準優勝に終わった。
UFC [編集]
2008年7月19日、UFC: Silva vs. IrvinではTUFシーズン7を失格になったジェシー・テイラーと対戦し、ペルーヴィアン・ネックタイ(脚で頭を抑えた状態からの変形フロントチョーク)で一本勝ちし、サブミッション・オブ・ザ・ナイトを受賞した[1]。12月27日、UFC 92でマイク・マッセンジオと対戦、1RにパウンドでTKO勝ちを果たした[2]。
2009年7月11日、UFC 100でトム・ローラーと対戦し、ギロチンチョークで一本負けを喫した[3]。
2010年9月25日、UFC 119でジョー・ドークセンと対戦し、フロントチョークで一本勝ちを収めた[4]。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
13 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
11 勝 5 3 3 0 0 0
2 敗 0 2 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ ジョー・ドークセン 1R 2:13 ギロチンチョーク UFC 119: Mir vs. Cro Cop 2010年9月25日
○ ゴラン・レルジッチ 5分3R終了 判定3-0 UFC 110: Nogueira vs. Velasquez 2010年2月20日
○ ジェイ・シウバ 5分3R終了 判定3-0 UFC Fight Night: Diaz vs. Guillard 2009年9月16日
× トム・ローラー 1R 0:55 ギロチンチョーク UFC 100 2009年7月11日
○ マイク・マッセンジオ 1R 3:01 TKO(マウントパンチ) UFC 92: The Ultimate 2008 2008年12月27日
○ ジェシー・テイラー 1R 3:58 ペルーヴィアン・ネックタイ UFC: Silva vs. Irvin 2008年7月19日
× アミール・サダロー 1R 3:02 腕ひしぎ十字固め The Ultimate Fighter: Team Rampage vs. Team Forrest Finale
【TUF7ミドル級トーナメント決勝】 2008年6月21日
○ ビル・スモールウッド 1R チョークスリーパー SE: Vale Tudo 2007年10月27日
○ ハンス・マレロ 1R 1:07 TKO(打撃) HDNet Fights: Initiation Night 2007年10月13日
○ ジョー・バンチ 2R 4:31 TKO IFO: Wiuff vs. Salmon 2007年9月1日
○ ジョージ・ハートマン 3分3R終了 判定3-0 Rage in the Cage 94 2007年4月28日
○ レヴィ・ラロンド 1R 2:40 TKO WFC: Desert Storm 2007年3月31日
○ チャック・パブロ TKO(スラム) Cage Fighting Federation 2006年11月10日
脚注 [編集]

^ 【UFN14】"ミドル級王者"シウバ、ライトヘビー戦はKO勝利 MMAPLANET 2008年7月20日
^ 【UFC92】ダラウェー勝利もギロチンにヒヤリ MMAPLANET 2008年12月28日
^ 【UFC100】ローラー勝利、2試合連続のギロチン決着 MMAPLANET 2009年7月12日
^ 【UFC119】ダラウェー、ダークセンをギロチンで一蹴 MMAPLANET 2010年9月26日
【2011/01/07 21:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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