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【2025/04/30 06:31 】 |
國奥麒樹真
國奥 麒樹真(くにおく きうま、男性、1976年11月12日 - )は、日本の総合格闘家。本名は國奥 道明(くにおく みちあき)。大阪府大阪市出身。フリーランス。
目次 [非表示]
1 来歴
2 人物
3 戦績
4 獲得タイトル
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
来歴 [編集]

1992年、中学卒業と同時に、藤原喜明率いるプロフェッショナルレスリング藤原組に入団し練習生となったが、同年12月に多くの所属選手が離脱したのに帯同[1]。翌1993年のパンクラス旗揚げに伴い、國奥もパンクラスに練習生として所属する。当時は名前を國奥将竜としていた。
1996年1月28日、リングネームを國奥麒樹真と改め、渋谷修身戦でプロデビュー。既にトップとして活躍していたフランク・シャムロックやガイ・メッツァーを下して國奥は程なくしてパンクラスの主力選手となった。近藤有己、渋谷修身と並び「ハイブリッド三銃士」と呼ばれていた。
2001年12月1日、パンクラスミドル級王者ネイサン・マーコートに挑戦し、2-0の判定勝ちで王座を獲得した[2]。
2002年5月28日、初代ウェルター級王者決定トーナメント1回戦で岩崎英明に3-0の判定勝ち[3]。7月28日、準決勝で大石幸史に3-0の判定勝ちを収め、決勝では伊藤崇文に腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収めウェルター級王座を獲得、ミドル級王座との同時制覇に成功した[4]。
2002年9月29日、ウェルター級王座防衛戦で長岡弘樹と対戦し、チョークスリーパーで一本勝ちを収めウェルター級王座の初防衛に成功した[5]。
2002年12月21日、ミドル級王座防衛戦でネイサン・マーコートと再戦し、右膝蹴りでKO負けを喫し、ミドル級王座の初防衛に失敗した[6]。
2003年5月、アブダビコンバット77kg未満級に出場。1回戦でマルセロ・ガッシアにバックからのチョークスリーパーで一本負け。
2003年7月1日、パンクラスMISSIONに移籍した前道場長鈴木みのるに代わり、パンクラスismの道場長に就任した[7]。
2003年11月30日、ウェルター級王座防衛戦で芹澤健市と対戦し、3-0の判定勝ちを収め2度目の防衛に成功した[8]。
2004年8月30日付けでパンクラスを退団した。当時パンクラスismの道場長も務めていたが、これらの地位を全て投げ打って、フリーとなった。退団理由について、「パンクラスにいると守られてしまい、自分の価値がわからない。一から実力を試したい」と述べた[9]。同時に保持していたウェルター級王座の返上も申し出ていたが、9月21日付けで正式に受理された[10]。
2005年7月6日、初参戦となったHERO'Sでホドリゴ・グレイシーと対戦し、判定負け。その後もHERO'S参戦するも1勝3敗と結果は振るわなかった。
2006年12月20日、DEEP初参戦となったDEEP 27 IMPACTでファブリシオ・"ピットブル"・モンテイロと対戦したが、チョークスリーパーで一本負け。
2007年7月8日、DEEP 30 IMPACTにおいて中尾受太郎と対戦し、判定ドロー。
2007年10月9日、DEEP 32 IMPACTにおいて池本誠知と対戦し、判定ドロー。
2008年9月28日、戦極初参戦となった戦極 〜第五陣〜でクォン・アソルと対戦し、判定勝ち。約2年ぶりの勝利を収めた。だが、試合後、戦極の國保尊弘広報に「負けを恐れず、前に出てもらいたい」と酷評された[11]。
2010年3月7日、SRC12でレオ・サントスと対戦し、チョークスリーパーで一本負け。
2010年10月30日、SRC15で真騎士と対戦し、パウンドによるTKO負けを喫した[12]。当初真騎士と対戦予定であったレオ・サントスが頸椎損傷および首のヘルニアにより欠場となったため、代理出場となった[13]。
人物 [編集]

日本のヒップホップ音楽家(キエるマキュウ)と親交がある。キエるマキュウの公式ブログ上にたびたび登場している。
須藤元気と同じマネージメント事務所に所属している。かつて、國奥と須藤はパンクラスのリングで対戦したことがある。結果は國奥の判定勝ち。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
65 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
32 勝 3 11 18 0 9 0
24 敗 8 3 13 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× 真騎士 1R 4:26 TKO(右フック→パウンド) SRC15 2010年10月30日
× レオ・サントス 1R 3:06 チョークスリーパー SRC12 2010年3月7日
○ クォン・アソル 5分3R終了 判定3-0 戦極 〜第五陣〜 2008年9月28日
△ 池本誠知 5分3R終了 判定0-1 DEEP 32 IMPACT 2007年10月9日
△ 中尾受太郎 5分3R終了 判定1-1 DEEP 30 IMPACT 2007年7月8日
× ファブリシオ・"ピットブル"・モンテイロ 1R 4:41 チョークスリーパー DEEP 27 IMPACT 2006年12月20日
× アントニオ・マッキー 5分2R終了 判定0-3 HERO'S 2006【オープニングファイト】 2006年3月15日
○ チョ・ジョンファン 1R 2:01 チョークスリーパー HERO'S 2005 in SEOUL 2005年11月5日
× 菊地昭 5分2R+延長R終了 判定0-3 HERO'S 2005 ミドル級世界最強王者決定トーナメント準決勝 2005年9月7日
× ホドリゴ・グレイシー 5分2R終了 判定0-3 HERO'S 2005 ミドル級世界最強王者決定トーナメント 2005年7月6日
× 竹内出 5分3R終了 判定0-2 パンクラス PANCRASE 2004 BRAVE TOUR 2004年4月23日
× 三崎和雄 2R 1:31 TKO(左目尻カット) パンクラス PANCRASE 2004 BRAVE TOUR 2004年2月6日
○ 芹澤健市 5分3R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2003 HYBRID TOUR
【ウェルター級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 2003年11月30日
× クラウスレイ・グレイシー 5分3R終了 判定0-3 パンクラス PANCRASE 2003 HYBRID TOUR 2003年8月31日
○ 稲垣克臣 1R 4:10 チョークスリーパー パンクラス PANCRASE 2003 HYBRID TOUR 2003年6月22日
○ 門馬秀貴 5分2R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2003 HYBRID TOUR 2003年4月12日
× ネイサン・マーコート 3R 4:36 KO(右膝蹴り) パンクラス PANCRASE 2002 SPIRIT TOUR
【ミドル級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 2002年12月21日
○ 長岡弘樹 3R 4:36 チョークスリーパー パンクラス PANCRASE 2002 SPIRIT TOUR
【ウェルター級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 2002年9月29日
○ 伊藤崇文 1R 4:59 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE 2002 SPIRIT TOUR
【初代ウェルター級王者決定トーナメント 決勝】 2002年7月28日
○ 大石幸史 5分2R+延長R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2002 SPIRIT TOUR
【初代ウェルター級王者決定トーナメント 準決勝】 2002年7月28日
○ 岩崎英明 5分2R終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2002 SPIRIT TOUR
【初代ウェルター級王者決定トーナメント 1回戦】 2002年5月28日
○ ネイサン・マーコート 5分3R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2001 PROOF TOUR
【ミドル級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 2001年12月1日
○ 上山龍紀 5分2R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2001 PROOF TOUR 2001年9月30日
△ ショーン・シャーク 5分3R終了 判定0-0 パンクラス PANCRASE 2001 PROOF TOUR 2001年7月29日
○ マシュー・ニコー 2R 3:35 アームロック パンクラス PANCRASE 2001 PROOF TOUR 2001年6月26日
○ 高瀬大樹 5分3R終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 2001 PROOF TOUR 2001年3月31日
△ ネイサン・マーコート 20分終了 判定1-0 パンクラス PANCRASE 2000 TRANS TOUR
【ミドル級キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 2000年12月4日
× ネイサン・マーコート 10分終了 判定0-3 パンクラス PANCRASE 2000 TRANS TOUR
【ミドル級ランキングトーナメント 準決勝】 2000年9月24日
○ マット・リー 4:15 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE 2000 TRANS TOUR
【ミドル級ランキングトーナメント 1回戦】 2000年6月26日
△ ショーニー・カーター 10分+延長3分終了 判定0-0 パンクラス PANCRASE 2000 TRANS TOUR 2000年4月30日
○ 須藤元気 10分+延長3分終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 2000 TRANS TOUR 2000年2月27日
○ レイン・アンドリュース 14:44 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR
【パンクラチオン・マッチ】 1999年12月18日
× 近藤有己 0:34 TKO(レフェリーストップ) パンクラス PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR
【キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチ】 1999年9月18日
○ 山宮恵一郎 15分終了 判定(ポイント1-0) パンクラス PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR 1999年5月23日
○ 近藤有己 15分終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR 1999年3月9日
○ 渡辺大介 3:58 アームロック パンクラス PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR 1999年2月11日
× ジェイソン・デルーシア 15分終了 判定(ポイント0-1) パンクラス PANCRASE 1999 BREAKTHROUGH TOUR 1999年1月19日
○ 石井大輔 10分終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年11月29日
○ 船木誠勝 15分終了 判定(ポイント1-0) パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年10月26日
× エヴァン・タナー 20分終了 判定(ポイント0-2) パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年9月14日
× リオン・ダイク 3:57 KO(キック) パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年6月2日
× エイドリアン・セラーノ 10分+延長3分終了 判定0-2 パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年4月26日
○ 渋谷修身 20分終了 判定2-0 パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年3月1日
△ 近藤有己 10分+延長3分終了 判定1-0 パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年2月6日
○ 窪田幸生 7:52 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE 1998 ADVANCE TOUR 1998年1月16日
× 金宗王 0:21 フロントチョーク パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年12月20日
× ガイ・メッツァー 11:12 TKO(レフェリーストップ) パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年10月29日
○ ジョン・ローバー 10分終了 判定(ポイント1-0) パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年9月6日
○ 長谷川悟史 9:07 足首固め パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年8月9日
× ジェイソン・デルーシア 18:51 TKO(ドクターストップ) パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年6月18日
△ 山宮恵一郎 10分終了 判定1-0 パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年5月24日
× バス・ルッテン 15分終了 判定(ポイント0-1) パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年4月27日
○ ヘイガー・チン 7:44 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年3月22日
× 近藤有己 20分終了 判定1-2 パンクラス PANCRASE 1997 ALIVE TOUR 1997年1月17日
○ フランク・シャムロック 20分終了 判定3-0 パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年12月15日
○ 長谷川悟史 5:32 TKO(ポイントアウト) パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年11月9日
○ 山宮恵一郎 1:38 腕ひしぎ十字固め パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年10月22日
○ ガイ・メッツァー 10分終了 判定2-1 パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年10月8日
× 山田学 8:29 フロントチョーク パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年9月7日
× ピート・ウィリアムス 10分終了 判定0-3 パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH
【ネオブラッドトーナメント 1回戦】 1996年7月22日
○ 伊藤崇文 10分終了 判定(ポイント1-0) パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年6月25日
△ 近藤有己 10分終了 判定0-1 パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年5月16日
× ジェイソン・デルーシア 15分終了 判定(ポイント0-3) パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年4月7日
○ 伊藤崇文 0:54 TKO(レフェリーストップ) パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年3月2日
△ 渋谷修身 10分終了 判定1-1 パンクラス PANCRASE TOUR 1996 TRUTH 1996年1月28日
獲得タイトル [編集]

パンクラス 第2代ミドル級キング・オブ・パンクラシスト
パンクラス 初代ウェルター級キング・オブ・パンクラシスト
脚注 [編集]

^ 格闘技通信 1993年2月23日号 4-7頁
^ [パンクラス]近藤強し! 郷野を病院送り BoutReview 2001年12月5日
^ [パンクラス] 5.28 後楽園:美濃輪、本当に大丈夫なのか? BoutReview 2002年5月28日
^ [パンクラス] 7.28 後楽園 (ウェルタートーナメント):國奥が二冠達成 BoutReview 2002年7月30日
^ [パンクラス] 9.29 横浜:GRABAKA佐々木、スティーブリングと打撃戦 BoutReview 2002年9月29日
^ [パンクラス] 12.21 有明:郷野が爆弾発言。國奥×マーコート決着 BoutReview 2002年12月21日
^ [パンクラス] 國奥、パンクラスismの新道場長に就任 BoutReview 2003年7月3日
^ [パンクラス] 11.30 両国:近藤、菊田を左フックでノックアウト BoutReview 2003年11月30日
^ [パンクラス] 國奥が退団しフリーに。ウェルター級王座も返上へ BoutReview 2004年8月30日
^ [パンクラス] 國奥のウェルター級王座返上を正式受理。空位に BoutReview 2004年9月22日
^ 國保広報が「戦極〜第五陣〜」を総括 スポーツナビ 2008年9月29日
^ 【SRC戦極】泉浩が石井慧との対戦をアピール!ウェルター級GP決勝は中村VS榎本(2) 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年10月30日
^ 【SRC戦極】10・30レオ・サントスが首の負傷により欠場、國奥が真騎士と対戦 格闘技ウェブマガジンGBR 2010年10月25日
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【2011/01/07 21:10 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ヴァンダレイ・シウバ
ヴァンダレイ・シウバ(Wanderlei Silva, 男性、1976年7月3日[1] - )は、ブラジルの総合格闘家。パラナ州クリチバ出身[1]。ヴァンド・ファイト・チーム所属[1]。元PRIDEミドル級王者。
ニックネームは「戦慄の膝小僧」、「ジ・アクス・マーダラー」(斧の如き殺人者)。PRIDEでは、1999年の初参戦から2004年まで約5年間無敗であり、「PRIDEミドル級絶対王者」と呼ばれていた。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち~UFC時代
1.2 PRIDE時代
1.3 UFC復帰後
2 戦績
3 獲得タイトル
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
来歴 [編集]

生い立ち~UFC時代 [編集]
1976年、ブラジルのパラナ州クリチバに生まれる。13歳のとき、シュートボクセ・アカデミーに入門した[2]。
1996年11月、ブラジルのヴァーリ・トゥード大会でプロ総合格闘技デビュー。欠場者の代理出場で、対戦相手ジウソン・フィリォとは20kgの差があったものの、逆転のKO勝利を収めた[2]。翌1997年9月にはIVC(英語)の8人トーナメントに出場、決勝のアルトゥール・マリアーノ戦では自らの頭突きで目尻をカットし、ドクターストップでTKO負けとなり、準優勝に終わる[3]。その後も3度IVCには出場しており、1998年ミドル級王座も獲得している[4]。
1998年10月16日にはブラジルで開催されたUFC BrazilでUFC初出場。セミファイナルでビクトー・ベウフォートと対戦するも、ベウフォートのスタンドの打撃で開始44秒でTKO負けを喫した[5]。1999年5月7日、UFC 20でトニー・ペタラと対戦し、膝蹴りでペタラをノックアウトし、UFC初勝利を挙げた。
PRIDE時代 [編集]
1999年9月12日、PRIDE.7で日本の総合格闘技大会PRIDEに初出場を果たし、シウバはカール・マレンコ相手に立ち技・寝技でともに優位に立って判定勝ちで白星デビューを飾る[6]。続く11月21日のPRIDE.8にも連続出場、松井大二郎と対戦した。試合は松井のタックルを切り続け、スタンドの膝蹴りで松井の出血を誘い、6-0の判定勝ちを収めた[7]。
2000年1月30日、16人参加のトーナメント「PRIDE GRANDPRIX 2000」の開幕戦にリザーバーとして出場、ボブ・シュライバーにチョークスリーパーで一本勝ち[8]。4月には日本で行われたUFC 25でUFC世界ミドル級王座(現ライトヘビー級王座)を巡りティト・オーティズと対戦し、判定負けで王座を逃した[9]。その後シウバは8月には自身が所属するシュートボクセ主催のメッカVT(8月12日)でトッド・メディーナをKOすると、2週間後には日本でPRIDE.10(8月27日)に出場、ガイ・メッツァーに勝利し、10月31日に行われたPRIDE.11でのリングス無差別級王者ギルバート・アイブルとの一戦は開始直後にアイブルへのローキックが急所に命中したためノーコンテストとなった[10]。PRIDE.12(12月23日)ではリングスKOKトーナメント優勝のダン・ヘンダーソンと対戦、ヘンダーソンの攻撃で左目をカットし視野を塞がれるものの、1ラウンド終盤から攻勢に転じたシウバは2ラウンドもマウントポジションを奪うなど試合を優位に進め、6-0のジャッジで判定勝ちを収める[11]。試合後のインタビューではミドル級のトップコンテンダー桜庭和志との対戦をアピールした[12]。
2001年3月25日、PRIDE.13で「ミドル級頂上対決」[13]と評された桜庭和志との一戦が実現。この大会から4点ポジションからの膝蹴りが可能となり[13]、この新ルールはシウバに有利と言われていたが[13]、試合ではテイクダウンを狙った桜庭にこの攻撃でダメージを与え最後はサッカーボールキックでTKO勝ちを収めた[14]。この一戦で「戦慄の膝小僧」の異名を轟かせ、一気にスターダムにのし上がった。その後PRIDE.14(5月27日)で大山峻護に勝利した[15]シウバは9月には桜庭とのPRIDE.17(11月3日)での再戦が決定[16]、またこの一戦がPRIDEミドル級王座決定戦となることが発表される[17]。迎えたタイトルマッチでは1ラウンド途中、桜庭にフロントチョークに捕らえられた体勢からボディスラムで左肩を叩きつけ脱臼させる。シウバのインサイドガードのまま終了した1ラウンド後、ドクターストップによるTKO勝利となり、以後5年以上に渡ってタイトルを保持することになるPRIDEミドル級の初代王者となった[18]。年末12月23日の福岡大会にも出場しアレクサンダー大塚と対戦、膝蹴りで鼻骨骨折に追い込みドクターストップによる勝利を手にしている[19]。
2002年の初戦は2月24日のPRIDE.19でのミドル級タイトルマッチで田村潔司と対戦、パウンドでダメージを与え最後は右ストレートでKO、初防衛に成功した[20]。4月28日、PRIDE.20で「PRIDE vs K-1」頂上決戦と評された[21]ミルコ・クロコップとの特別ルール(3分5R判定なし、グラウンドでの膠着はブレイクの後スタンドからのリスタート)での対戦は引き分けに終わった[21]。その後8月にはDynamite!(8月28日)への出場が決定、一度はジェレル・ヴェネチアンとの対戦が決定したものの、大会プロデューサー石井和義の呼びかけに応じた極真空手王者の岩崎達也に変更となった[22]。試合では岩崎に比べ12kgの体重差があったものの、膝蹴り、テイクダウンからのパウンドで攻勢を掛け、最後はサッカーボールキックからのパンチ連打で勝負を決めている[23]。11月24日にはPRIDEの東京ドーム大会で金原弘光を相手にミドル級タイトルマッチを行い、1ラウンド3分過ぎにシウバの踏みつけで金原陣営がタオルを投げ入れ、2度目の防衛に成功した[24]。
2003年、シウバは8名によるミドル級トーナメント「PRIDE GRANDPRIX 2003」に出場する[25]。8月10日に行われた1回戦では桜庭と3度目の対戦となったが[26]、桜庭のローキックにカウンターの右ストレートを合わせて失神させ、返り討ちにした[27]。10月には準決勝の組み合わせ抽選会で吉田秀彦の指名を受け対戦が決定[28]、迎えた11月9日の準決勝では吉田を判定で破り決勝進出を果たすと[29]、決勝ではクイントン・"ランペイジ"・ジャクソン相手に首相撲からの15発の膝蹴りでKO、ミドル級グランプリ優勝を果たした[29]。
2004年2月15日、PRIDEの新シリーズであるPRIDE武士道の第2回大会に出場、「日本VSシュート・ボクセ 3対3対抗戦」の大将戦として美濃輪育久と対戦し[30]、開始1分過ぎ、テイクダウンに失敗して引き込んだ美濃輪にパウンドを浴びせKO勝利を収めた[31]。4月には「PRIDE 武士道 -其の参-」でのパンクラス・ライトヘビー級王者近藤有己との対戦が決定するも[32]右膝靭帯損傷により欠場となり[33]、試合は8月に延期された[34]。8月15日の「PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦」で行われたこのノンタイトル戦は「日本人最後の砦[35]」と称された近藤をパンチでダウンさせ、踏みつけによりレフェリーストップとなった[36]。試合後にはリングに登場したクイントン・ジャクソンの挑戦表明を受け、「ヤル!」と応じるパフォーマンスを見せた[35]。PRIDE.28(10月31日)で実現したジャクソンとの再戦は首相撲からの膝蹴りで失神KOに追い込み、ミドル級王座3度目の防衛に成功した[37]。大晦日の「PRIDE 男祭り 2004」では桜庭と4度目の対戦が決定していたが[38]、桜庭の怪我[39]で直前に対戦相手がヘビー級のマーク・ハントに変更となった[40]。試合は2ラウンドにダウンを奪われるもその後はマウントポジションを取るなどポジショニングで優位に立った。判定は1-2でPRIDE初黒星を喫したものの、インタビューでは「自分の勝ちだったと思う」というコメントを残した[41]。
2005年は連覇を掛け16人で行われたミドル級グランプリに参戦。4月23日の1回戦では吉田秀彦との再戦となり、2-1の判定で勝利する[42]。2回戦(6月26日)では半袖の柔道着を纏った中村和裕との対戦となり、開始5分過ぎ、中村が服を脱いだ瞬間にパンチでダウンを奪い、マウントパンチによる追撃でレフェリーストップ、ベスト4に進出した[43]。しかし8月28日の準決勝ではヒカルド・アローナにグラウンドで抑え込まれる展開が続き、判定で敗れGP連覇を逃す[44](優勝は同門のマウリシオ・ショーグン)。シウバが同階級の選手に負けたのはティト・オーティズ戦以来5年振りのことであった。大晦日には「PRIDE 男祭り 2005」でアローナとミドル級タイトルマッチで再戦。僅差の判定で下し4度目の防衛に成功している[45]。
2006年、シウバは負傷欠場したエメリヤーエンコ・ヒョードルに代わって「PRIDE 無差別級グランプリ」の2回戦に出場し[46]、藤田和之と対戦した。右ストレートでダウンを奪いサッカーボールキックを放つとセコンドがタオルを投入、TKO勝利となり準決勝進出を果たした[47]。9月10日の「PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦」で行われたトーナメント準決勝では、PRIDE.20以来の再戦となるミルコ・クロコップと対戦。1ラウンド5分過ぎに左ハイキックを受け失神、KO負けを喫した[48]。
2007年2月25日、5度目の防衛戦となるPRIDE.33で、7年振りの再戦となるダン・ヘンダーソンとミドル級タイトルマッチを行ったが、最終ラウンドに左フックでKO負けを喫し、5年余りに渡って保持していたチャンピオンベルトを失った[49]。
UFC復帰後 [編集]
2007年のPRIDEの活動休止とともにUFCと再び契約し、それに前後してシュートボクセ・アカデミーから脱退。アメリカに移住し、ランディ・クートゥアのジムであるエクストリーム・クートゥアでトレーナーに就任した。2007年12月29日、UFC 25以来7年半振りのUFC復帰戦となるUFC 79ではチャック・リデルと対戦し、0-3の判定負けを喫するも[50]ファイト・オブ・ザ・ナイトを獲得した[51]。
2008年5月24日、UFC 84でキース・ジャーディンと対戦。右フックでダウンを奪いパウンドによる追撃でKO勝ち[52]、ノックアウト・オブ・ザ・ナイトを獲得した[53]。12月27日のUFC 92ではPRIDEで2連勝したクイントン・"ランペイジ"・ジャクソンと3度目の対戦を行い、左フックで失神KO負けを喫した。
2009年6月13日、UFC 99でリッチ・フランクリンと契約体重195ポンド(約88kg)で対戦し、判定負けを喫するも[54]ファイト・オブ・ザ・ナイトを獲得した[55]。10月にはミドル級で秋山成勲との対戦が発表されたものの[56]、その後マイケル・ビスピンに変更となった[57]。試合は2010年2月20日のUFC 110で行なわれ、シウバが判定で勝利[58]。
2010年7月3日のUFC 116で秋山成勲と改めて対戦予定であったが自身の怪我により欠場することが試合1週間前に発表された[59]。
戦績 [編集]

総合格闘技 戦績
45 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
33 勝 22 4 7 0 1 1
10 敗 5 0 5 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
○ マイケル・ビスピン 5分3R終了 判定3-0 UFC 110: Nogueira vs. Velasquez 2010年2月20日
× リッチ・フランクリン 5分3R終了 判定0-3 UFC 99: The Comeback 2009年6月13日
× クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン 1R 3:21 TKO(左フック) UFC 92: The Ultimate 2008 2008年12月27日
○ キース・ジャーディン 1R 0:36 KO(パウンド) UFC 84: Ill Will 2008年5月24日
× チャック・リデル 5分3R終了 判定0-3 UFC 79: Nemesis 2007年12月29日
× ダン・ヘンダーソン 3R 2:08 KO(左フック) PRIDE.33 "THE SECOND COMING"
【PRIDEミドル級タイトルマッチ】 2007年2月24日
× ミルコ・クロコップ 1R 5:26 KO(左ハイキック) PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦
【無差別級GP 準決勝】 2006年9月10日
○ 藤田和之 1R 9:21 TKO
(サッカーボールキック→タオル投入) PRIDE 無差別級グランプリ 2006 2nd ROUND
【無差別級GP 準々決勝】 2006年7月1日
○ ヒカルド・アローナ 3R(10分/5分/5分)終了 判定2-1 PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI-
【PRIDEミドル級タイトルマッチ】 2005年12月31日
× ヒカルド・アローナ 2R(10分/5分)終了 判定0-3 PRIDE GRANDPRIX 2005 決勝戦
【ミドル級GP 準決勝】 2005年8月28日
○ 中村和裕 1R 5:24 KO(パウンド) PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND
【ミドル級GP 準々決勝】 2005年6月26日
○ 吉田秀彦 3R(10分/5分/5分)終了 判定2-1 PRIDE GRANDPRIX 2005 開幕戦
【ミドル級GP 1回戦】 2005年4月23日
× マーク・ハント 3R(10分/5分/5分)終了 判定1-2 PRIDE 男祭り 2004 -SADAME- 2004年12月31日
○ クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン 2R 3:26 KO(膝蹴り) PRIDE.28
【PRIDEミドル級タイトルマッチ】 2004年10月31日
○ 近藤有己 1R 2:46 TKO(踏みつけ) PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦
【ワンマッチ】 2004年8月15日
○ 美濃輪育久 1R 1:09 KO(パウンド) PRIDE 武士道 -其の弐- 2004年2月15日
○ クイントン・"ランペイジ"・ジャクソン 1R 6:28 TKO(膝蹴り) PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦
【ミドル級GP 決勝】 2003年11月9日
○ 吉田秀彦 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE GRANDPRIX 2003 決勝戦
【ミドル級GP 準決勝】 2003年11月9日
○ 桜庭和志 1R 5:01 KO(右フック) PRIDE GRANDPRIX 2003 開幕戦
【ミドル級GP 1回戦】 2003年8月10日
○ 金原弘光 1R 3:31 TKO(踏みつけ→タオル投入) PRIDE.23
【PRIDEミドル級タイトルマッチ】 2002年11月24日
○ 岩崎達也 1R 1:16 TKO(パウンド) Dynamite! SUMMER NIGHT FEVER in 国立 2002年8月28日
△ ミルコ・クロコップ 3分5R終了 時間切れ PRIDE.20 2002年4月28日
○ 田村潔司 2R 2:28 KO(右ストレート) PRIDE.19
【PRIDEミドル級タイトルマッチ】 2002年2月24日
○ アレクサンダー大塚 3R 2:22 TKO(鼻骨骨折) PRIDE.18 2001年12月23日
○ 桜庭和志 1R終了時 TKO(左肩脱臼) PRIDE.17
【PRIDEミドル級王座決定戦】 2001年11月3日
○ 大山峻護 1R 1:30 TKO(左フック) PRIDE.14 2001年5月27日
○ 桜庭和志 1R 1:38 TKO(サッカーボールキック) PRIDE.13 2001年3月25日
○ ダン・ヘンダーソン 10分2R終了 判定6-0 PRIDE.12 2000年12月23日
- ギルバート・アイブル 1R 0:21 無効試合(金的攻撃) PRIDE.11 2000年10月31日
○ ガイ・メッツァー 1R 3:45 KO(スタンドでのパンチ) PRIDE.10 2000年8月27日
○ トッド・メディーナ 1R 0:39 KO(膝蹴り) Meca World Vale Tudo 2 2000年8月12日
× ティト・オーティズ 5分5R終了 判定0-3 UFC 25: Ultimate Japan 3
【UFC世界ミドル級王座決定戦】 2000年4月14日
○ ボブ・シュライバー 1R 2:42 チョークスリーパー PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦
【リザーブマッチ】 2000年1月30日
○ 松井大二郎 10分2R終了 判定6-0 PRIDE.8 1999年11月21日
○ カール・マレンコ 10分2R終了 判定6-0 PRIDE.7 1999年9月12日
○ トニー・ペタラ 1R 2:53 KO(膝蹴り) UFC 20: Battle for the Gold 1999年5月7日
○ ユージーン・ジャクソン 1R 0:32 ギブアップ International Vale Tudo Championship 10: World Class Champions 1999年4月27日
○ エイドリアン・セラーノ 1R 0:22 KO International Vale Tudo Championship 9: The Revenge 1999年1月20日
× ビクトー・ベウフォート 1R 0:44 TKO(パンチ) UFC Brazil: Ultimate Brazil 1998年10月16日
○ マイク・ヴァン・アースデイル 1R 4:00 KO(踏みつけ) International Vale Tudo Championship 6: The Challenge 1998年8月23日
× アルトゥール・マリアーノ 2R 13:10 TKO(カット) International Vale Tudo Championship 2: A Question of Pride
【決勝】 1997年9月15日
○ エジディオ・ダ・コスタ 1R 2:27 ギブアップ(パンチ) International Vale Tudo Championship 2: A Question of Pride
【準決勝】 1997年9月15日
○ ショーン・ボーメット 1R 1:19 KO(右ハイキック) International Vale Tudo Championship 2: A Question of Pride
【1回戦】 1997年9月15日
○ マルセロ・バルボーザ 1R 0:20 ギブアップ(肩負傷) Brazilian Vale Tudo 10 1997年7月1日
○ ジウソン・フィリォ 1R 3:35 KO(パンチ) Brazilian Vale Tudo 6【1回戦】 1996年11月1日
獲得タイトル [編集]

初代PRIDEミドル級王座(4度防衛)
PRIDEミドル級GP 2003 優勝
IVCミドル級王座
【2011/01/06 22:12 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラスとセーラー・ホワイト
├─≠ョ─ヵラス ベアハッグ
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス リングネーム通り、船乗り上がりの荒くれ狂乱ファイターとしてカナダ大西洋岸やモントリオール地区を主戦場に活躍、日本では国際プロレスに度々参戦した。
【2011/01/06 19:57 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
スチュ・ハート
スチュ・ハート(Stewart Edward "Stu" Hart、1915年5月3日 - 2003年10月16日)は、カナダのプロレスラー、トレーナー、プロレスプロモーター。ハート道場から数多くの門下生をプロレス界に輩出し、また子供達が皆プロレスに関わっていることで知られ、ハート・ファミリーをプロレスの名門に育て上げた人物である。
より原音に近い表記は「ステュー・ハート」だが、本項では日本のプロレス史における慣例的な表記(日本語圏で一般によく知られている名前)に則る。
来歴 [編集]

サスカチュワン州サスカトゥーン出身。エドモントン・エスキモーズにも所属したアメリカンフットボール選手でもあったが、レスリングの素質も高く、1939年にはカナダ・ナショナル選手権で優勝しオリンピック代表にも選ばれたことがある。しかし第二次世界大戦により1940年、1944年のオリンピックは中止、海軍に入隊し選手生活を続けていたが出場することは叶わなかった。
第二次世界大戦後、1946年にニューヨークでプロレスラーとして活動を始める。現役時代のスタイルはレスリングの経験に基づく関節技の達人で、俗に「シューター」と呼ばれるような実戦派レスラーだったと言われる。アメリカ各地を巡業後、1951年に帰国しアルバータ州カルガリーにプロレス団体クロンダイク・レスリング(後のスタンピード・レスリング)を立ち上げ、プロモーターとしての活動を開始した。またハート家の地下に造られた道場「ダンジョン」(地下牢の意)でホームステイさせている数々のレスラー志望者をトレーニングし、この中には世界規模のスーパースターになった者も少なくない。この団体はスチュの門下生の他に、日本やイギリスなど各地から選手を招聘して人気を高めカナダで一大勢力を誇るようになる。
1960年のレスラー引退後も、プロモーター業は1984年にスタンピード・レスリングをWWF(現WWE)に売却するまで続けた。「ダンジョン」での新人訓練は1992年、77歳で引退。2001年にはカナダ勲章を授与されている。
2003年10月16日、脳梗塞のため死去。88歳没。2010年、プロレス業界における功績を称え、WWE殿堂に迎えられた。
外部リンク [編集]

Online World of Wrestling Profile
WWE Hall of Fame
プロレス選手権変遷史: アルバータ & サスカチュワン (スタンピード・レスリング)
[隠す]
表・話・編・歴
WWE殿堂
1993年
アンドレ・ザ・ジャイアント
1994年
アーノルド・スコーラン | ボボ・ブラジル | バディ・ロジャース | チーフ・ジェイ・ストロンボー | フレッド・ブラッシー | ゴリラ・モンスーン | ジェームス・ダッドリー
1995年
アントニオ・ロッカ | アーニー・ラッド | ジョージ・スティール | イワン・プトスキー | ザ・ファビュラス・ムーラ | ザ・グラン・ウィザード | ペドロ・モラレス
1996年
ジミー・スヌーカ | ジョニー・ロッズ | キラー・コワルスキー | キャプテン・ルー・アルバーノ | バロン・マイケル・シクルナ | パット・パターソン | ザ・バリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント、ジョニー・バリアント) | ビンス・マクマホン・シニア
2004年
ビッグ・ジョン・スタッド | スーパースター・ビリー・グラハム | ボビー・ヒーナン | ドン・ムラコ | グレッグ・バレンタイン | ハーリー・レイス | ジェシー・ベンチュラ | ジャンクヤード・ドッグ | サージェント・スローター | ティト・サンタナ | ピート・ローズ
2005年
カウボーイ・ボブ・オートン | ハルク・ホーガン | ジ・アイアン・シーク | ジミー・ハート | ニコライ・ボルコフ | ポール・オーンドーフ | ロディ・パイパー
2006年
ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ) | ブレット・ハート | エディ・ゲレロ | ジーン・オーカーランド | センセーショナル・シェリー | トニー・アトラス | バーン・ガニア | ウィリアム・ペリー
2007年
カート・ヘニング | ダスティ・ローデス | ジェリー・ローラー | ジム・ロス | ミスター・フジ | ニック・ボックウィンクル | ザ・シーク | ザ・ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ、シカ・アノアイ)
2008年
ザ・ブリスコ・ブラザーズ(ジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコ) | エディ・グラハム | ゴードン・ソリー | メイ・ヤング | ピーター・メイビア | リック・フレアー | ロッキー・ジョンソン
2009年
ビル・ワット | ハワード・フィンケル | ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク) | ココ・B・ウェア | リッキー・スティムボート | ストーン・コールド・スティーブ・オースチン | ザ・フォン・エリックス(フリッツ・フォン・エリック、ケビン・フォン・エリック、デビッド・フォン・エリック、ケリー・フォン・エリック、マイク・フォン・エリック、クリス・フォン・エリック)
2010年
アントニオ猪木 | テッド・デビアス | マッドドッグ・バション | ウェンディ・リヒター | ゴージャス・ジョージ | スチュ・ハート | ボブ・ユッカー
【2011/01/06 19:54 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
スティーブ・ウィリアムス
スティーブ・ウィリアムス(Steve Williams、1960年5月14日 - 2009年12月29日)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。コロラド州レイクウッド出身。「殺人医師」「ドクター・デス」(Dr. Death)のニックネームで知られた。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 初来日以前
1.2 初来日後
1.3 咽頭癌の発覚
1.4 手術の成功とプロレス界への復帰
2 その他
3 参考文献
4 得意技
5 獲得タイトル
6 脚注
7 外部リンク
来歴 [編集]

初来日以前 [編集]
オクラホマ大学時代からアメリカンフットボールとレスリングで才能を発揮し、レスリングでは大学選手権4年連覇やオールアメリカンへの抜擢を受けるほどであった。
プロレス入りしたのは1982年。当初はアメフトのオフシーズンのみリングに上がっており、1983年から本格的にプロレスラー活動を始める。大学の先輩にあたりウィリアムスをスカウトしたビル・ワットの主宰するMSWA(後のミッドサウス版UWF)で、テッド・デビアスとのコンビで活躍(この当時の抗争相手は、後にタッグを組むテリー・ゴディやマイケル・ヘイズの「ファビュラス・フリーバーズ」だった)。1985年12月にはダラスでアントニオ猪木と対戦している。
初来日後 [編集]
1986年7月、新日本プロレスに初来日したが、不器用さを露呈し、猪木と対戦した際に誤って失神させてしまう。個別シリーズでは外人エース扱いを受けるものの、後に参戦してきたクラッシャー・バンバン・ビガロやビッグバン・ベイダーに次ぐ3番手への降格を余儀なくされた。またファイトスタイルから、UWF勢やソ連レスリング軍団の新日参戦の際に、彼らとの試合に対応できる外人選手と期待されるが、目立った活躍を残せなかった。
1987年、ジム・クロケット・ジュニアのミッドサウス版UWF買収に伴い、NWAのジム・クロケット・プロモーションズ(後のWCW)に移籍。1988年9月からはマイク・ロトンドのパートナーとしてバーシティ・クラブに加入し、翌1989年4月2日にロード・ウォリアーズからNWA世界タッグ王座を奪取した[1][2]。
1990年2月に全日本プロレスに参戦。以降は全日本を日本での主戦場とし、最強外国人の一角として日本人選手の前に立ちはだかった。テリー・ゴディとのタッグは殺人魚雷と呼ばれ(ゴディの日本での異名が「人間魚雷」だったため)、このタッグで1990年と1991年の2年連続で世界最強タッグ決定リーグ戦に優勝するなど目覚しい活躍を見せた。
本国アメリカでもゴディとのコンビで1992年7月5日にスタイナー・ブラザーズ(リック&スコット)を破りWCW世界タッグ王座を、1週間後の7月12日にはトーナメント決勝でバリー・ウインダム&ダスティン・ローデスを破り復活版NWA世界タッグ王座を獲得、二冠王となり両タッグ王座の統一を果たした[1][3]。テリー・ゴディのWCW退団後はスタニング・スティーブ・オースチンとタッグを組んだ時もあった(オースチンの本名はスティーブ・ウィリアムスであり、同姓同名のタッグということになる)。
ウィリアムスがシングル戦線に名乗りを上げたのは1993年夏、パートナーのゴディが内臓疾患により長期欠場し始めた頃からである。9月に三沢光晴の三冠ヘビー級王座に挑戦するはずだったゴディの欠場により、ウィリアムスと小橋の間で三冠挑戦者決定戦が行われ、ウィリアムスが勝利。この試合でウィリアムスが放った急角度のバックドロップを、全日本プロレス中継で実況の佐藤啓アナは「バックドロップドライバー」と表現した。ゴディが三冠王者となった1990年を頂点に年々陰りが見えていたのに対し、それまでタッグ屋と見られていたウィリアムスのシングルプレーヤーとしての飛躍がこの小橋との一戦から始まる。
三沢には敗れたものの、翌年の1994年、チャンピオン・カーニバル準優勝の実績を残し、7月に再び三沢に挑戦。2年間にわたり王座を保持していた三沢を破り、遂に第11代三冠ヘビー級チャンピオンとなった。この時は1回の王座防衛の後、10月に川田利明に敗れ王座からは陥落。
1995年、チャンピオン・カーニバル直前に「家庭の事情」という名目で来日キャンセル(実際は鎮痛剤の大量保持による入国禁止。当時はこの事情は伏せられていたが、1997年春にハルシオンの大量保持で書類送検された際に公表された)。1996年、チャンピオン・カーニバルで1年ぶりの復帰を果たし、準優勝に輝いたが、技のキレがなくなったことを三沢に指摘されたり、パンチを多用し始めたことが批判の対象となった。小橋健太、ジョニー・エース、パトリオットがGETを結成すると、対抗してゲーリー・オブライト、ザ・ラクロスとともにTOPを結成。
1998年6月を最後にWWFに移籍したが、彼をプッシュするために企画されたシュート大会 "WWF Brawl for All" の準々決勝でバート・ガンにKO負けして短期間で姿を消す(バート・ガンはこの後「ウィリアムスをKOした男」として全日本の常連となる。なお、WWFではMSWAから初期WCWを通しての旧知の間柄であるジム・ロスが一時マネージャー役を務めていた)。
1999年5月、東京ドームでの馬場の引退記念興行に参戦した後、2000年より本格的に全日本マットに復帰し、ベイダーと組んで当時日本陣営のトップチームだった小橋健太&秋山準を破って世界タッグ王座を奪取。全日本プロレスの選手大量離脱、プロレスリング・ノア発足時にも全日本プロレスに継続参戦する。2000年10月の新日本プロレスの東京ドーム大会での全日本プロレスと新日本プロレスとの対抗戦では、両団体の最強外国人レスラー対決としてスコット・ノートンと対決。必殺技のバックドロップでピンフォール勝ちを奪った。同年の世界最強タッグリーグ戦ではマイク・ロトンドとのバーシティ・クラブ21で9年ぶりの優勝を飾った。翌年には武藤敬司に渡った三冠王座奪還のための、全日本陣営の挑戦者の一人としても起用されている。
咽頭癌の発覚 [編集]
その後2003年からはIWAジャパンをホームリングとし、2004年3月にはかねてから願望があった総合格闘技にも挑戦する。この挑戦は、咽頭癌の手術代を稼ぎ出すためのものとも言われるが、2007年3月に『週刊プロレス』に掲載されたインタビューによれば、ウィリアムスが癌の告知を受けたのは試合当日直前であったとされる。こうした事情もあり、この試合は1ラウンドでKO負けしたものの、それを非難する者はいなかった。
2004年7月にIWAジャパンに来日した際に、自身が咽頭癌に罹っていることを公表する。一時危篤状態に陥るものの声帯を全摘出する手術を行った。
手術の成功とプロレス界への復帰 [編集]
ウィリアムスの手術は成功し、健康状態はいったん回復した。かねてより希望していたように、湖畔にたたずむ落ち着いた一軒家に住み、静かな生活を送っていた。体重は全盛期から20kgほど減ったものの、時折リングに上がっており、本人によればプロレスの試合に出るということが癌との戦いにも良い影響を与えているとのことであった。また手術成功後、友人であるジョニー・エースの依頼でWWEのファーム選手のコーチに就任した他、自身の闘病経験を教会で語るなど社会活動にも取り組むようになった(声帯を全摘出したために固形物の嚥下はできないが、発声用の機械を埋め込んであるので音声による会話は可能とのこと)。
2007年3月には闘病記『How Dr. Death became Dr.Life(殺人医師が生命の医師になるまで)』を出版している。2009年5月にはIWA・JAPANの15周年記念興行に来日した。
しかし、秋頃に咽頭癌が再発。2009年10月にIWAジャパンで予定されていたスティーブ・ウィリアムス引退記念試合が延期になった。その後も抗がん剤治療などに回復に専念していたが、12月29日に死去。49歳没。
その他 [編集]

全日本マットで脳天から叩き落とす危険な技の応酬のスタートのきっかけを作ったのは、1993年の小橋との三冠挑戦者決定戦でウィリアムスが放った「デンジャラス・バックドロップ」である(この技は1990年にシングル戦で谷津嘉章にあばら骨を骨折させる大怪我をさせ、しばらく封印していたものである。それ以前に垂直落下式ブレーンバスターも使っていた)。それ以降、三沢が「タイガードライバー'91」を解禁、危険な角度の投げ捨て式ジャーマン・スープレックスも使用、後に「エメラルド・フロウジョン」を考案。小橋は「バーニング・ハンマー」「ハーフネルソン・スープレックス」「スリーパー・スープレックス」、川田は「三冠パワーボム」「垂直落下式ブレーンバスター」「垂直落下式バックドロップ」、田上明は急角度の「怪物ジャーマン・スープレックス」、秋山準は「リストクラッチ式エクスプロイダー」、ジョニー・エースは「コブラクラッチ・スープレックス」「ジョニー・スパイク」等、トップ選手が次々と脳天直下型の受身が取りにくい危険技を使用し始めた。
SWSの旗揚げ興行初日に突如客席に訪れた。感想を尋ねると「(この団体は)成功はないな」と断言したという。
2000年の全日本プロレス分裂で三沢ら離脱組の最後の売り興行けじめ参戦の際、馬場を尊敬していたウィリアムスは三沢を襲う素振りをしていたが、実行はせず(亡くなった馬場は場外乱闘を嫌っていたため)三沢とは握手して別れた。CS番組での仲田龍の発言によると、この素振りがきっかけで後にNOAHのマットに上がる機会を逸したとのこと。番組ではウィリアムス側からのNOAHマット参戦の要望を断ったとコメントした。
一方、ウィリアムス自身はNOAHを高く評価しており、自身の教え子がNOAH(や新日本、全日本)で修行出来れば良いという希望を述べている(前出『週刊プロレス』インタビュー)
入場テーマ曲はキッスの『勇士の叫び(I Love It Loud)』(後にタッグを組んでいたゴディも単独で使用した)。UWF所属時代や新日本プロレス参戦初期はブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』を使用した。
殺人魚雷コンビ全盛のころ、宮城県スポーツセンターで行われた最強タッグ選手権試合の際、人気絶頂の彼らの入場口には多くの観客が集まり、テープやカメラを片手に今か今かと入場を待っていた。いつもであれば、テリー・ゴディを先頭に余裕たっぷりに現れるはずが、ドアが開くと同時に椅子を持ったウィリアムスが凄まじい勢いで入場。意表をつかれた観客らは蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。椅子はなぎ倒され転倒者が続出、周囲はさながら阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
殺人魚雷コンビ結成当初は入場曲がかかると同時にテリー・ゴディと2人そろって全速力でリングに入り交互にロープワークするのがお決まりだった。この2人は公私ともに親しく、ゴディのスタン・ハンセンとの三冠王者戦にウィリアムスが半ば加勢する様な形を取っていた(リング外でゴディを手当てするなど)。試合後、敗戦したこともあり ハンセンは「ウィリアムスの乱入は許せん! ガッデム!!」と怒り狂っていた。
レスリングの強豪だが試合ぶりにはゴツゴツした不器用な面が目立った。似たようなタイプのスタン・ハンセンとのシングル戦を全日自主制作のビデオで解説した馬場は苦笑しながら「僕はこの人たちが一体何をしたいのか全然わかりません」と語っていた。その他にも「体が硬い」「受身の勉強不足で頭から落ちてしまう」など、馬場からは辛い評価が多かった。
参考文献 [編集]

『週刊プロレス』2007年4月4日号
得意技 [編集]

デンジャラス・バックドロップ
受身の取りにくい急角度や垂直落下ので落とすため、デンジャラス・バックドロップ、殺人バックドロップと呼ばれた。また本人はドクター・スープレックスの愛称で呼ぶこともあった。特に対小橋戦でのバックドロップは圧巻で、実況した佐藤啓アナが「バックドロップ・ドライバー」と表現したことがある。かつて三冠統一ヘビー級王者として7度の防衛記録を保持していた三沢光晴からベルトを奪取したときに放ったのもこの技。
デンジャラス・バックドロップ・ホールド
上記技を掛けた後、そのままブリッジしたままフォールする技。勢い余って形が半ば崩れた様な形で強引にフォールすることもあった。
ドクターボム
サイド・スープレックスの要領で相手を抱え、その状態からパワーボムに持って行く技。バックドロップとこの技が、ウィリアムスの代名詞。
オクラホマ・スタンピード
創始者ビル・ワット直伝。対戦選手を抱えあげたまま、コーナーポストに向かってダッシュし、いったん対戦相手の背中をポストにぶつけた後、また対角線上の逆のコーナーに向かってダッシュし、再び対戦相手の背中をポストに当てた後、リング中央でボディスラムのようにで叩き付け、そのままフォールするという技。トップロープからの雪崩式も使用した。大抵100kg以上ある選手をずっと抱えたまま動く技のため、技をかけたウィリアムスの方が疲労しているかのように見えることもある。1993年頃までフィニッシュ・ホールドであったが、スタミナの負担の大きな割には抱え上げた相手にポストやロープに捕まってディフェンスされやすいことに加え、後年にデンジャラス・バックドロップやドクター・ボムをマスターしたことから使用頻度は徐々に減っていった。
ダイビング・ショルダー・アタック
立っている相手に対し、トップロープから飛んで肩から相手にぶつかる技。フィニッシュとなることは少ないが、タッグマッチながらジャイアント馬場からピンフォールを奪ったことがある。
リフトアップ・スラム
怪力を誇るウィリアムスならではの技であり、試合中の見せ場の一つ。
その他に、急角度で投げ捨てるタイガー・スープレックス、雪崩式の水車落とし、パワースラム、カウンターでの旋回式スパイン・バスター、テリー・ファンク風のジャブ&ストレート(もしくはフック)、フットボール・タックル、コーナーにもたれている相手への側転からのジャンピング・ボディアタック(背面式もあった)などを得意技として使用。
獲得タイトル [編集]

全日本プロレス
三冠ヘビー級王座:1回
世界タッグ王座:8回(w / テリー・ゴディ×5、ゲーリー・オブライト、ベイダー、ジョニー・エース)
NWA / WCW
NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / マイク・ロトンド)
NWA USタッグ王座:1回(w / ケビン・サリバン)
WCW世界タッグ王座:1回(w / テリー・ゴディ)
MSWA / UWF
ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / テッド・デビアス)
UWF世界ヘビー級王座:1回
UWF世界タッグ王座:1回(w / テッド・デビアス)
その他
ACWヘビー級王座:1回
UWF世界ヘビー級王座(Herb Abrams派):1回
UWF TV王座(Herb Abrams派):1回
IWA世界タッグ王座:1回(w / 三宅綾)
【2011/01/06 19:54 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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