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【2025/04/30 11:58 】 |
スタン・ステイジャック
スタン・ステイジャック(Stan "The Man" Stasiak、1937年4月13日 - 1997年6月19日)は、カナダ・ケベック州モントリオール出身のプロレスラー。本名はジョージ・スティピッチ(George Stipich)。日本では「スタン・スタージャック」と表記された。
第5代WWWF世界ヘビー級王者として知られる。息子のショーン・ステイジャックもプロレスラーであり、WWEやWCWで活動した。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 日本での活躍
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

1958年に地元のモントリオール地区でデビュー。カナダ各地を転戦し、1965年にはカルガリーでドン・レオ・ジョナサンからNWAカナディアン・ヘビー級王座を奪取する[1]。同年より太平洋岸北西部をサーキット・エリアとするPNW(Pacific Northwest Wrestling)に進出し、マッドドッグ・バションを破りパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を獲得[2]。以降、キャリア末期の1980年代までPNWを主戦場に活動し、看板タイトルである同王座には通算6回載冠した[2]。
1970年はオーストラリアにも遠征し、キング・イヤウケアからIWA世界ヘビー級王座を奪取[3]。1972年にはテキサスのダラス地区に参戦してブラスナックル王座を獲得するなどヒールのラフファイターとしてのステイタスを高め[4]、1973年よりニューヨークのWWWFに登場する。
WWWFではグラン・ウィザードをマネージャーに悪名を売り、チーフ・ジェイ・ストロンボーやトニー・ガレアら人気スターを撃破、ブラックジャック・ランザと結託してアンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した[5]。そして1973年12月1日、フィラデルフィアでペドロ・モラレスを破りWWWF世界ヘビー級王座を獲得[6]。9日後の12月10日にMSGでブルーノ・サンマルチノに敗れ短命王者に終わったものの、モラレス政権から第2次サンマルチノ政権への「橋渡し役」を担ったことで、彼の名はプロレス史に永久に刻まれることとなった[7]。
その後も各地で活躍し、五大湖地区ではザ・シークと流血戦を展開。トロントでは1975年にジャック・ブリスコ、1976年にテリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[8][9]。1977年にはWWWF王座返り咲きを狙って新王者スーパースター・ビリー・グラハムとも対戦し[10]、1978年はニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座にも挑んだ[11]。本拠地のPNWでは、若手時代のロディ・パイパーやリック・マーテルとも激闘を繰り広げている。
1980年は久々にダラス地区に登場し、ブルーザー・ブロディを相手にブラスナックル王座を争う[4]。その後はPNWに定着し、ベビーフェイスに転向してバディ・ローズやロン・バス、ザ・シープハーダーズと抗争。1982年12月にはビリー・ジャック・ヘインズをパートナーにタッグ王座を獲得している[12]。同団体ではカラー・コメンテーターも兼任していた。1984年に現役を引退し、トロントでセキュリティ・ガードに転身した。
1997年6月19日、心不全により死去[13]。60歳没。
日本での活躍 [編集]
初来日は1966年12月、東京プロレスの旗揚げ第2弾(および最終シリーズ)となる『チャンピオン・シリーズ』に外国人エースとして参戦。アントニオ猪木のUSヘビー級王座(10月の旗揚げシリーズで猪木がジョニー・バレンタインから奪取したタイトル)に連続挑戦した。再来日となる1969年3月の国際プロレス『ワールド選抜シリーズ』では、ビル・ロビンソンのIWA世界ヘビー級王座に挑戦している。
1973年2月にはクラッシャー・スタージャック名義で全日本プロレスの『ジャイアント・シリーズ結集戦』に3度目の来日。しかし、ブルーノ・サンマルチノ、ハーリー・レイス、ボボ・ブラジル、パット・オコーナーら大物が参加した同シリーズでは目立った活躍は果たせず、同年12月のWWWF王座奪取は関係者を驚かせた[14]。
翌1974年4月、「元WWWF世界王者」という肩書のもと、新日本プロレスの『第1回ワールド・リーグ戦』に参加。外国人選手の招聘ルートがまだまだ脆弱だった当時の新日本にとっては大物中の大物であり、東京プロレス以来の猪木との再戦も注目された。公式戦では予選リーグを通過し決勝リーグに進出したが、戦績は振るわなかった(星野勘太郎とジート・モンゴルを下し、キラー・カール・クラップとは引き分けるも、猪木、坂口征二、マサ斎藤、ジ・インベーダーに敗退)。新日本には1979年2月の『ビッグ・ファイト・シリーズ』にも来日しており、タイガー・ジェット・シンともタッグを組んでいる。これが通算5回目の最後の来日となった。
得意技 [編集]

ハート・パンチ
相手の心臓部めがけて拳を叩き込むパンチ攻撃。オックス・ベーカーがリング禍を起こしたことで知られる。後にブライアン・アダムスも使用。
ショルダー・クロー
アトミック・ドロップ
ベアハッグ
獲得タイトル [編集]

WWWF
WWWF世界ヘビー級王座:1回
PNW
NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:6回
NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:8回(w / マッド・ラシアン、マイティ・アーサス、ハル佐々木、トニー・マリノ、ダッチ・サベージ、プレイボーイ・バディ・ローズ、ビリー・ジャック・ヘインズ×2)
スタンピード・レスリング
NWAカナディアン・ヘビー級王座(カルガリー版):3回
スタンピード北米ヘビー級王座:1回
NWAビッグタイム・レスリング
NWAブラスナックル王座(ダラス版):2回
NWAテキサス・ヘビー級王座:1回
NWAテキサス・タッグ王座:1回(w / キラー・ブルックス)
その他
NWAインターナショナル・タッグ王座(トロント版):1回(w / マンマウンテン・キャンベル)
NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):2回(w / ダッチ・サベージ)
NWAブラスナックル王座(アマリロ版):1回
IWA世界ヘビー級王座(オーストラリア版):1回
NWF北米ヘビー級王座:1回
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【2011/01/06 19:53 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
デビッド・テイラー (プロレスラー
デビッド・テイラー("Squire" David Taylor、1957年5月1日 - )は、イギリス・ヨークシャー出身のプロレスラー(生年は1955年ともされる[1])。
デイブ・テイラー(Dave Taylor)の名義でも知られる。1990年代よりアメリカに進出し、WCWやWWEで英国貴族ギミックのヒールとなって活動した。
目次 [非表示]
1 来歴
2 得意技
3 獲得タイトル
4 脚注
5 外部リンク
来歴 [編集]

オリンピック選手でもあった祖父ジョーとプロレスラーの父エリックの指導を受け、1974年にスウェーデンでデビュー[1]。
1977年1月には、ピート・ロバーツとの英国人コンビで新日本プロレスの『新春黄金シリーズ』に初来日している。同シリーズはスタン・ハンセンが新日本マットに初参戦したことで知られているが(シリーズのエースはタイガー・ジェット・シン)、テイラーはシリーズ開幕から1週間後に急性盲腸炎を患い、日本で摘出手術を受けて緊急帰国を余儀なくされた[2]。なお、昭和期の新日本プロレスには1985年3月の『ビッグ・ファイト・シリーズ第2弾』にも来日している。
イギリスではリヴァプールを拠点とするオールスター・プロモーションズ(現在のAll Star Wrestling)を主戦場とし、1991年4月6日にはデイブ・フィンレーからブリティッシュ・ヘビー級王座を奪取[3]。オットー・ワンツが主宰するドイツのCWAにも遠征し、同年12月21日にクリス・ベノワ、1993年7月18日にミレ・ツルノをパートナーに、同団体認定の世界タッグ・タイトルを2度に渡って獲得した[4]。
1995年にアメリカへ渡り、WCWにて同じく英国出身のロード・スティーブン・リーガル(現ウィリアム・リーガル)が結成していたタッグチーム・ユニット、ブルー・ブラッズ(The Blue Bloods)に加入。スクワイア(Squire)をニックネームに、リーガルのパートナーとなって嫌味な英国紳士のヒールを演じた。以降、1990年代後半はWCWを主戦場に、リーガル、クリス・アダムス、英国時代のライバルでもあったデイブ・フィンレーらと共闘。1996年10月にはWCWとの提携ルートで新日本プロレスに久々に来日し、リーガルとのコンビで『SGタッグリーグ戦VI』に出場した。1997年11月23日にミシガンで行われたPPV "World War 3 1997" にもリーガルと組んで出場し、スタイナー・ブラザーズ(リック&スコット・スタイナー)のWCW世界タッグ王座に挑戦している[5]。
2001年のWCW崩壊後はWWFと契約し、当時WWFのファーム団体だったOVWのトレーナーを担当。レスラーとしてもWWFのダーク・マッチに度々出場した。2004年にはTNAにも登場したが、2006年よりWWEと再契約。ファーム団体DSWのトレーナーを経てスマックダウンの所属選手となり、WCW時代の盟友ウィリアム・リーガルとブルー・ブラッズのギミックを再現し、WWEタッグ王者のブライアン・ケンドリック&ポール・ロンドンと抗争。2007年4月からはケインとの抗争アングルも展開された。
リーガルのRAW移籍後はポール・バーチルやドリュー・マッキンタイアとコンビを組んでいたが、2008年4月28日にWWEを解雇された。以降はイアン・ロッテンが主宰するIWAミッドサウスやチカラなどのインディー団体に単発参戦している[6]。
得意技 [編集]

ブリティッシュ・スープレックス
ヨーロピアン・アッパー・カット
アブドミナル・ストレッチ
獲得タイトル [編集]

ブリティッシュ・ヘビー級王座:2回
CWA世界タッグ王座:2回(w / クリス・ベノワ、ミレ・ツルノ)
CWFミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回
ヨーロピアン・ヘビー級王座:1回
脚注 [編集]

^ a b 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P71(2002年、日本スポーツ出版社)
^ スタン・ハンセン著『魂のラリアット』P160(2000年、双葉社)ISBN 4575291080
^ “British Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
^ “CWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月20日閲覧。
^ “World War III”. The History of WWE. 2010年8月18日閲覧。
^ “Wrestler Profiles: Dave Taylor”. Online World of Wrestling. 2010年2月11日閲覧。
【2011/01/05 02:01 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
デビッド・シュルツ
デビッド・シュルツ(David "Dr. D" Schultz、1955年6月1日 - )は、アメリカ合衆国テネシー州出身の元プロレスラー。生年は1950年ともされる[1]。
引退後は犯罪者を捕えて報酬を得るプロのバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)として活躍している[2]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 エピソード
3 得意技
4 獲得タイトル
5 脚注
6 外部リンク
来歴 [編集]

ハイスクール時代はアメリカンフットボールの選手だったが、膝を負傷してプロ入りを断念[1]、1974年に地元テネシー州のNWAミッドアメリカ地区でプロレスラーとしてデビュー。以降テネシーを主戦場に、アラバマのガルフ・コースト地区やカナダのマリタイム地区(ノバスコシア、ニューブランズウィック)にも転戦してキャリアを積む。喧嘩ファイトを身上とするヒールとして頭角を現し、荒っぽい試合スタイルが多いことから当時「無法地帯」と呼ばれていたテネシーでも名うてのラフファイターに成長した。
1978年には国際プロレスに初来日(表記は「ダビッド・ショルツ」)。シリーズのエース格だったオックス・ベーカーの相棒となって、ラッシャー木村やアニマル浜口と流血戦を演じた。翌1979年にはテネシー州ノックスビルでデニス・コンドリーをパートナーに、ディック・スレーター&ポール・オーンドーフからNWAサウスイースタン・タッグ王座を奪取している[3]。テネシーではその後もメンフィスのCWAでコンドリーとコンビを組み、ジェリー・ローラー、ビル・ダンディー、ジミー・バリアント、リッキーとロバートのギブソン・ブラザーズなどと抗争した[4]。
1981年から1982年にかけてはカナダ・アルバータ州カルガリーのスタンピード・レスリングに参戦、ブレット・ハートやミスター・ヒトを破り、メインタイトルの北米ヘビー級王座を通算3回獲得した[5]。1982年7月18日にはエドモントンにて、カルガリー地区に遠征してきたニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦[6]。これを機に翌1983年にAWAと契約し、メジャーテリトリーへの本格的な進出を果たした。AWAではミスター・サイトーのパートナーとなってハルク・ホーガンと抗争を展開。その活躍ぶりをビンス・マクマホンに認められ、ホーガンと同時期にWWFに移籍する。ホーガンとの抗争はWWFでも継続させ、1984年よりスタートしたWWFの全米進出サーキットではAWA圏侵攻の目玉カードとしてホーガン対シュルツのWWF世界王座戦が組まれた。同年7月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参加している。
しかし1984年12月28日、ニューヨークのMSGでの試合前にABCアナウンサーのジョン・ストッセルの取材を受け、プロレスの内部事情に関する質問に激高。殴打事件を起こしたために謹慎処分を受け、後に解雇される[7][8]。なお当日、シュルツは日本から遠征してきたアントニオ猪木と対戦し[9]、この試合は日本でも放送された。当時のWWFにおいてシュルツはロディ・パイパー&ポール・オーンドーフとヒール・ユニットを結成しており、パイパーの用心棒として活躍していたが、その役どころをカウボーイ・ボブ・オートンに譲ることとなった。
WWF解雇後は各地を転戦し、古巣メンフィスのCWAではWWF入り前のランディ・サベージともタッグを組んでいる。ディノ・ブラボーらが主宰していたカナダのモントリオール地区では、1986年11月にグレート・サムゥことサムラ・アノアイを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した[10]。
1987年に引退してからはバウンティ・ハンターに転身。世界を股にかけて犯罪者を追跡し、FBIやDEAをはじめ各地の警察機関の捜査に協力している(現在までの逮捕者数は約1700人といわれている)。引退後は1990年代にWWFのステロイド裁判に原告側の証人として出廷[2]した以外はプロレスリング業界との関わりを絶っていたが、近年はファンが主宰するイベントなどに登場している[11]。
エピソード [編集]

ジョン・ストッセル殴打事件をベースに、1985年3月の新日本プロレスへの再来日時には古舘伊知郎を殴打するというアングルが組まれたが、以降も日本に定着することはなく、これが最後の来日となった。
リング外でも気性が激しかったようで、ダイナマイト・キッドの自著では、キッドにけしかけられたシュルツがドレッシング・ルームでハルク・ホーガンと乱闘を起こしたエピソードが書かれている[12]。
バウンティ・ハンターに転身後、日本では「犯人に射殺された」という誤報が報じられたことがあった。
得意技 [編集]

ハングマンズ・ホールド
ツームストーン・パイルドライバー
ダイビング・エルボー・ドロップ
ナックル・パンチ
獲得タイトル [編集]

NWAミッドアメリカ / CWA
NWAミッドアメリカ・タッグ王座:1回(w / ビル・アッシュ)
NWA6人タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / トージョー・ヤマモト&グレート・トーゴー)
NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):2回(w / ロジャー・カービー、ダッチ・マンテル)
AWA南部タッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)
NWAアラバマ / SECW
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(南部版):1回
NWAサウスイースタン・タッグ王座:1回(w / デニス・コンドリー)
スタンピード・レスリング
スタンピード北米ヘビー級王座:3回
その他
NWAカナディアン・ヘビー級王座(ハリファックス版):1回
カナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版):1回
脚注 [編集]

^ a b 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P41(2002年、日本スポーツ出版社)
^ a b “Wrestler Profiles: "Dr. D" David Schultz”. Online World of Wrestling. 2009年4月4日閲覧。
^ “NWA Southeastern Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月7日閲覧。
^ “Memphis Wrestling History 1980”. Memphis Wrestling History. 2010年8月27日閲覧。
^ “Stampede North American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月27日閲覧。
^ “The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1982”. Wrestling-Titles.com. 2010年8月27日閲覧。
^ “ABC Reporter May Sue Wrestler Who Hit Him”. New York Times(February 23, 1985). 2009年4月4日閲覧。
^ “Old-School Sundays: Dr. D David Shultz-Andre the Giant!”. Wrestlers Ramblings. 2010年2月16日閲覧。
^ “WWE Specific Arena Results: MSG 1980-1989”. The History of WWE. 2009年4月4日閲覧。
^ “International Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年11月3日閲覧。
^ “Dr. D dominates PWHF dinner”. SLAM! Wrestling(October 9, 2006). 2009年4月4日閲覧。
^ 『ピュア・ダイナマイト - ダイナマイト・キッド自伝』P146(2001年、エンターブレイン) ISBN 4-7577-0639-1
【2011/01/05 02:01 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
デニス・コンドリー
"ラヴァーボーイ" デニス・コンドリー("Loverboy" Dennis Condrey、1952年2月1日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アラバマ州フロレンス出身。
1980年代に一世を風靡したタッグチーム・ユニット、ミッドナイト・エクスプレス(The Midnight Express)のオリジナル・メンバー。在籍期間もメンバー中で最長である[1]。
目次 [非表示]
1 来歴
2 獲得タイトル
3 脚注
4 外部リンク
来歴 [編集]

ジンとオレイのアンダーソン兄弟にスカウトされ、1974年にデビュー[2]。地元アラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング(SECW)とテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)を主戦場に、1975年から1978年にかけてはフィル・ヒッカーソンとの悪党コンビで活動[3]。デビッド・シュルツともタッグを組み、1979年11月にポール・オーンドーフ&ディック・スレーターからNWAサウスイースタン・タッグ王座を[4]、1980年4月にビリー・ロビンソン&ケン・ルーカスからAWA南部タッグ王座を奪取した[5]。
シングルでは1979年8月、CWAにてジプシー・ジョーを破りNWA世界ブラスナックル王座を獲得[6]。1980年6月にはSECWにてテリー・テイラーからNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取している[7]。ジム・バーネットのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにも出場し、1980年9月にスティーブ・カーンを破りNWAジョージア・ヘビー級王座にも戴冠した[8]。
1980年11月からはランディ・ローズと新チームを組み、翌1981年にノーベル・オースチンを仲間に加え、トリオのユニットとしてミッドナイト・エクスプレスを結成。以降、アラバマのSECWとテネシーのCWAを股にかけ、両プロモーション認定のタッグ王座を再三獲得した[4][5]。
1983年の末にミッドナイト・エクスプレスは一旦解散し、コンドリーはCWAからのトレードでボビー・イートンやジム・コルネットと共にビル・ワットのMSWAに移籍[9]。1984年より、イートンを新パートナー、コルネットをマネージャーにMSWAにて第2期のミッドナイト・エクスプレスを編成する。1985年からはノースカロライナのNWAジム・クロケット・プロモーションズに参戦。ロックンロール・エクスプレスやロード・ウォリアーズを相手に抗争を繰り広げ、当時の米マット界のタッグ戦線を牽引した[9]。
1987年初頭にNWAを突如脱退、旧メンバーのランディ・ローズと再合体し、"オリジナル" ミッドナイト・エクスプレスを名乗ってAWAに登場。ポール・E・デンジャラスリーを新マネージャーに、同年10月30日、CWA時代から因縁のあるジェリー・ローラー&ビル・ダンディーからAWA世界タッグ王座を奪取。以降もマーティ・ジャネッティとショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズとタイトルを争った。
翌1998年からは、オリジナル・ミッドナイト・エクスプレスとしてローズ&コルネットを帯同しNWAに復帰。彼の離脱後に再編されていたボビー・イートンとスタン・レーンの第3期ミッドナイト・エクスプレスとの、同名チームによる骨肉の遺恨試合を繰り広げた。
テッド・ターナーのNWAクロケット・プロ買収後は新会社のWCWに残留せず、古巣のアラバマに復帰。SECWから名称を変更したコンチネンタル・レスリング・フェデレーション(CWF)に参戦し、1989年7月にトム・プリチャードからCWFヘビー級王座を奪取した[10]。以降、エディ・ギルバートの実弟ダグ・ギルバートとのリーサル・ウェポンズなどで活動後、1990年に引退した[2]。
近年も時折、各地のインディー団体やリユニオン・イベントにゲスト出場し、ボビー・イートンらとミッドナイト・エクスプレスを再結成している[1]。2008年6月7日にジョージア州アトランタで行われた "NWA Anniversary Show" では、コンドリー&イートン(w / コルネット)対ロックンロール・エクスプレスという1980年代の黄金カードが再現された[11]。
2010年3月、デベロップメント・トレーナーとしてWWEと契約、ファーム団体FCWにおいてNXTの新人選手育成を担当している[12][13]。
獲得タイトル [編集]

NWAミッドアメリカ / CWA
NWA世界ブラスナックル王座:1回
NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座:2回
NWAミッドアメリカ・タッグ王座:1回(w / フィル・ヒッカーソン)
NWA USタッグ王座(ミッドアメリカ版):5回(w / フィル・ヒッカーソン)
NWA6人タッグ王座(ミッドアメリカ版):2回(w / フィル・ヒッカーソン&アル・グリーン、トージョー・ヤマモト&クリス・コルト)
AWA南部タッグ王座:9回(フィル・ヒッカーソン×5、デビッド・シュルツ、ドン・カーソン、ノーベル・オースチン×2)
SECW / CWF
NWAアラバマ・ヘビー級王座:2回
NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回
NWAサウスイースタン・タッグ王座:15回(フィル・ヒッカーソン×3、デビッド・シュルツ、ドン・カーソン、ランディ・ローズ×10)
CWFヘビー級王座:1回
GCW
NWAジョージア・ヘビー級王座
MSWA
ミッドサウス・タッグ王座:2回(w / ボビー・イートン)
WCCW
NWAアメリカン・タッグ王座:1回(w / ボビー・イートン)
AWA
AWA世界タッグ王座:1回(w / ランディ・ローズ)
etc.
【2011/01/05 02:00 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
スコット・ノートン
スコット・ノートン(Scott Michael Norton、1961年6月15日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身。超竜の異名を持つ。主に新日本プロレスで活躍し、WCWにも参戦した。
平成に入ってからの日本マットでもっとも活躍した外国人レスラーの1人であり、新日本プロレスではIWGPヘビー級王座を2度獲得している。同王座の戴冠は外国人としては3人目であった。ロード・ウォリアー・ホークは高校時代の同窓生で、エディー・シャーキーのジムでも同期であった。
マイクパフォーマンスをそれほど得意としていなかったため、どちらかといえば本国アメリカでよりも、日本で人気の高かったプロレスラーの一人である。
目次 [非表示]
1 来歴
2 入場テーマ曲
3 獲得タイトル
4 得意技
5 エピソード
6 外部リンク
来歴 [編集]

少年時代からアームレスリングに熱中し、世界大会優勝、全米選手権3度優勝という輝かしい成績を残した。小さな大会等を合わせると、実に30もの大会を制覇してきたという。閃光のように素早く相手を片付けるところから「フラッシュ」の異名を取り、1987年にはシルベスター・スタローン主演の映画『オーバー・ザ・トップ』にも出演。その後、友人であるロード・ウォリアー・ホークに勧誘され、レイガンズ道場にてプロレスのトレーニングを始める。ブラッド・レイガンズやバーン・ガニアから手解きを受け、マサ斎藤からもレスリングを教わった。
1989年にAWAにてプロレスラーとしてデビュー。翌1990年に初来日。アームレスリングの活躍や映画出演などの話題性で来日前から注目度は高かった。入場曲は出演映画のテーマソングを使用した。日本初試合では、馳浩、佐々木健介のダブル攻撃を食らっても倒れず、長州力のラリアットを何度食らってもすぐにケロっと立ち上がるタフさを見せ、観客を沸かすと共に勝利も手にした。
その後も新日本に継続参戦し、トップ外人に登りつめる。1992年にはトニー・ホームと組んでIWGPタッグ王座を獲得(第20代)、翌年にもヘラクレス・ヘルナンデスとの「ジュラシック・パワーズ」で同王座に輝いている。新日本のレスラーはいつしかノートン越えがトップレスラーの証だといわれるようになった。ニックネームの「超竜」は週刊ゴングの金澤克彦が命名。初来日以前は、怪豪と呼ばれていた。
1996年よりWCWに登場し、nWoのBチームに所属。1998年には蝶野正洋が負傷で返上したIWGPヘビー級王座の王者決定戦で永田裕志を倒し、その第23代王者となった。外国人としては、ベイダー、サルマン・ハシミコフに次いで3人目の戴冠であった。2001年にも佐々木健介を破り第28代王者に返り咲いたが、直後に藤田和之に敗れてタイトルを失った。
2004年10月からはブラックニュージャパンの一員となり、2006年3月の新日本参戦で通算100回目の来日を果たした。同年12月にはUWAI STATIONの旗揚げ戦に出場し、2007年11月にはハッスルのハッスル・マニア2007に参戦。川田利明が対戦を拒否したケロロ軍曹と試合を行い、パワースラムでフォール勝ちした。近年は体力的な問題から来日回数は減少しているが、アメリカでワイルド・ウエスト・チャンピオンシップ・レスリング(WWCW)というインディ団体を立ち上げるなどプロモーターとしての活動も行っている。
2008年10月にプロレス・エキスポに参戦。
入場テーマ曲 [編集]

映画『オーバー・ザ・トップ』のテーマ曲
サミー・ヘイガー(Sammy Hagar)の『Winner Takes It All』
獲得タイトル [編集]

新日本プロレス
IWGPヘビー級王座 : 2回
IWGPタッグ王座 : 2回(w / トニー・ホーム、ヘラクレス・ヘルナンデス)
G1 TAG LEAGUE(SGタッグリーグ) : 1996年優勝(w / 橋本真也)、1999年優勝(w / 武藤敬司)
2003年度新日本プロレス外国人No1受賞
PNW(Pacific Northwest Wrestling)
NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:1回(1990年5月にオレゴン州ポートランドでブライアン・アダムスから奪取)
得意技 [編集]

類い稀な肉体から繰り出されるパワーファイトが売り。オーソドックスな力技を好んで使用し、技数を多く使用するようなことは無かった。
超竜ボム(ノートンボム)
腰を深く落とさない、投げ捨て式パワーボム。相手を持ち上げる前に人差し指を立てて両腕を広げ見得を切り、投げ捨てた後は両手を相手の胸に置いて覆いかぶさるようにフォールするのが特徴。
全盛期はサンダー・ファイヤー・パワーボムのように、肩口に持ち上げていたが徐々に通常の型へと変化していった。
パワースラム
自身の体重を浴びせるのではなく、膝をついて投げ捨てる型を使用。新日本参戦時には同じくパワースラムを得意とする佐々木健介と差別化を図るために、ノートンのものはブレス式パワースラムと呼ばれた。
超竜ボムとともにフィニッシュとしても用いられ、自身をスカウトしたマサ斎藤も引退試合の際、この技で下している。
ジャックハマー
フィニッシュとして使用されたが、短期間で繋ぎ技の扱いとなった。
リバース・ショルダー・バスター
カナディアン・バックブリーカーの体勢で担ぎ上げた相手を反転させ、肩口を自身の立てた方膝にぶつける技。
ショルダー・ネックブリーカー
繋ぎ技として一時期よく使用していた。
ラリアット
打ち込む前に両手を叩き合わせる仕草が特徴的。リターン・ラリアットや起き上がり子法師式も使用。
フライング・ショルダーアタック
相手をロープに振って、カウンターのラリアットがかわされた後に反対側に走り込み繰り出すことが多い。
フライング・ショルダータックル、フライング・ショルダーブロックとも。
ボディ・スプラッシュ
相手をコーナーに振っておいての串刺し式。軽く跳躍しながら仕掛けていた。
逆水平チョップ
ノートンのパワーファイトの基本となる技。
エピソード [編集]

ミネアポリスおよびセントポール出身のレスラーは多いが、女子プロレスラーのメデューサとは仲が悪いらしい[要出典]。新日本プロレス側からの指示には一度たりとも逆らったことがないのが誇りだとコメントしたことがある。
原田芳雄と共にサントリーのビール「シャウト」のCMに出演した。
外部リンク [編集]

スコット・ノートン - Twitter
Online World of Wrestling Profile
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表・話・編・歴
IWGPヘビー級王座
初代-10代
1 アントニオ猪木 / 2 藤波辰巳 / 3 藤波辰巳 / 4 ビッグバン・ベイダー / 5 サルマン・ハシミコフ / 6 長州力 / 7 ビッグバン・ベイダー / 8 長州力 / 9 藤波辰爾 / 10 ビッグバン・ベイダー
11代-20代
11 藤波辰爾 / 12 長州力 / 13 グレート・ムタ / 14 橋本真也 / 15 藤波辰爾 / 16 橋本真也 / 17 武藤敬司 / 18 高田延彦 / 19 橋本真也 / 20 佐々木健介
21代-30代
21 藤波辰爾 / 22 蝶野正洋 / 23 スコット・ノートン / 24 武藤敬司 / 25 天龍源一郎 / 26 佐々木健介 / 27 佐々木健介 / 28 スコット・ノートン / 29 藤田和之 / 30 安田忠夫
31代-40代
31 永田裕志 / 32 高山善廣 / 33 天山広吉 / 34 中邑真輔 / 35 天山広吉 / 36 佐々木健介 / 37 ボブ・サップ / 38 藤田和之 / 39 佐々木健介 / 40 天山広吉
41代-50代
41 小島聡 / 42 天山広吉 / 43 藤田和之 / 44 ブロック・レスナー / 45 棚橋弘至 / 46 永田裕志 / 47 棚橋弘至 / 48 中邑真輔 / 49 武藤敬司 / 50 棚橋弘至
51代-60代
51 中西学 / 52 棚橋弘至 / 53 中邑真輔 / 54 真壁刀義 / 55 小島聡
【2011/01/03 23:18 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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